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●琉球の王統 りゅうきゅうのおうとう

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 琉球の王統は,舜天英祖察度第一尚氏第二尚氏の5王統である。王統について詳しく記したものに『中山世鑑』と『中山世譜』がある。前者は王家の系譜を明らかにすることを目的に,向象賢によって1650年(順治7・慶安3)に編纂された。その内容は,琉球の開闢・各王統の始まり・各王の伝承と治績である。これに手を加えて漢訳したものが後者で,1701年に完成された。これらに記された琉球の王統は次のとおりである。

舜天王統】この王統の始祖舜天の父は,日本国清和天皇の孫源経基の子孫である源為朝であるとされている。保元の乱(1156)に敗れて伊豆大島に流された為朝は,大島を脱してはるか琉球に流れ着き,土地のアンジ(按司)の娘と結ばれて舜天が生まれたと記している。この物語の非史実性についてはすでに議論の余地はなく,『中山世鑑』の編者向象賢の意図(日琉同祖論)による創作と考えられている。琉球の王統と日本国天皇が血脈の関係にあるという説は琉球国内で受け入れられていた。この説は幕末の日本において,琉球王国を日本国の藩屏として位置づける論拠に用いられた。また明治政府による琉球王国内化の正統性を支える一つの要素ともなった。この王統は,舜天・舜馬順煕・義本と3代で終わる。

英祖王統】実在の確認しうる最初の王英祖は,1260年に舜天王統最後の王義本から王位を禅譲されたとある。英祖は浦添恵祖按司の子で,生母が“上帝のことを夢に見て”あるいは“日輪が母の懐に入って”生まれたとされる。後に“日子”(てだの子)の神号がおくられる。英祖王の代は,久米島・慶良間島・奄美大島を初めとする周辺諸島の入貢があり,高麗とも交渉をもち,元の攻略をも退けるという輝かしいものであった。その後各地方の按司が勢力を増してそれぞれが地域の統一をはかるようになり,玉城王(4代)のとき北と南に王を名乗る者が現れて三山(山北王・中山王・山南王)が対立するようになった。他の二山との戦いに中山は消耗し,西威王(5代)で英祖王朝は消滅した。

察度王統】浦添按司察度は人々の信望を集めて中山王位についた(1350)。察度は奥間大観と天女の間に生まれ,家運を興し,鉄を一手に買い入れて農具として財をなし,農民に慕われて浦添按司となったとされる。この時代には宮古・八重山地域からも入貢があり,中山王の勢力は高まったが,その子武寧が不明であったため王統は2代で終わった。

第一尚氏王統】察度王統を滅ぼした(1406)巴志は,父思紹を初代王位にすすめた。その後抗争中の三山の統一を手がけてまず山北を制圧し,1422年に残る山南を滅ぼして三山を統一し,父の死によって巴志が2代王位についた。1425年に明国の仁宗より冊封を受け,1430年には尚姓を賜った。しかし度重なる戦いと大工事で政情は安定せず,王位簒奪の争いも生じた。この王統は7代尚徳の死によって断絶した(1469)。

第二尚氏王統】第二尚氏の初代尚円は,伊是名島の百姓に生まれ,名を金丸といった。金丸は第一尚氏6代尚泰久に重用されて要職につき,国王の信任を一身に集めたが,七代尚徳と折り合いが悪く職を辞して所領に引きこもった。正徳の死後,衆議は世子ではなく金丸の即位に一決し,尚円王が生まれて第二尚氏王統が始まった。3代尚真のときその支配権は琉球全域に及んだが,7代尚寧のとき薩摩藩の軍事的侵入を受け(1609),中国と日本に両属する立場が19代尚泰までつづく。尚代は後に琉球藩王となり侯爵に叙せられた。

〔参考文献〕横山重編『琉球史料叢書』1972,東京美術

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