●琉球 りゅうきゅう
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九州南端と台湾を結んで弧を描きながら,太平洋を背に東シナ海を囲う形に,大小の島々が点在している。この地域は今日地図に南島列島と記されているが,琉球列島・琉球弧あるいは南島とも呼ばれる。このほかにも名称があり,その使用には時代的な盛衰があった。【琉球の名称】琉球の名称が初めて歴史に記されたのは『隋書』列伝巻46「東夷伝,流求国」の記事である。これがのちの琉球か台湾あるいはその両方か,明治以後議論のあったところである。リュウキュウは流鬼・瑠球・留求・琉求などと記されたが,“琉球”と定まるのは明太祖が中山王(察度)と山南王に鍍金銀印を与えたとき1383年(洪武16)からとされる。一方オキナワは,『唐太和上東征伝』(779,宝亀10)に鑑真の漂着した島阿児奈波として記されたのが最初である。その後中国の冊封使は倭急拿・屋其惹と書き表したが,これは“ウチナー”の音をとったものと考えられている。“おきなは”と最初に表記されたのは長門本『平家物語』であり,“沖縄”とされたのは新井白石の『南島志』においてである。沖縄の語源には伊波普猷の“沖魚場(おきなは)”説や東恩納寛惇の“沖の島”説がある。
【琉球国】その地理的条件から,古くより日本及び南島諸地域と交渉があったと考えられる。14世紀後半にはすでに琉球国が交易によって南海の産物を入手していたことを,『高麗史』『明史』の貢物の記事が裏付けている。琉球国の外交文書集『歴代宝案』には1424年(永楽22)から1867年(同治6)まで,400年余にわたる対外交渉の記録が収められている。交易範囲は中国・日本・朝鮮はもとより,邏羅・安南・爪哇・三仏斉(パレンバン)・満刺加・蘇門答刺・巡達・仏太泥ときわめて広い。1368年に国を興した明は,海禁政策をとって私貿易を禁じ,一方で周辺諸国に冊封体制をしいた。それが中国商人の海外活動を大きく後退させ,琉球国の活躍の場が開けたのである。琉球国は東南アジアと東アジアを結ぶ中継貿易国として栄えた。しかし16世紀に入るとポルトガルが勢力を伸ばして東南アジアにおける交易が困難になり,中国商人の活動も再び盛んになって,琉球国の交易活動は後退した。とはいえ,長いあいだの冊封・朝貢関係に支えられた対中国貿易は,薩摩藩の注目するところであった。1609年(万暦37・慶長14)に薩摩藩は軍事的に侵入して琉球国を附庸国とした。しかし中国との関係はそのまま保たれることになった。薩摩藩は国王・摂政の承認権をもち,琉球国内に在番奉行を派遣し,検地を実施し,貢租を負担させ,中国貿易を義務化し,鹿児島への年頭使と江戸への賀慶・恩謝使の派遣を求めた。18世紀後半になると,ロシア・フランス・イギリス・ドイツ・アメリカ・オランダの艦船が相次いで琉球国を訪れた。1854年(咸豊4)にアメリカと修好条約を結び,つづいてフランス・オランダとも独自に条約を取り交した。明治になって廃藩置県が行われ,琉球国は鹿児島県の支配するところとなった。1872年,明治政府は琉球国を琉球藩とし,このとき琉球国は消滅した。さらに明治政府は廃藩置県を行い(1879),琉球藩を沖縄県として強硬に国内化を進めた。これに清国は強く抗議し琉球分島案も生じたが,実現しないまま,日清戦争の日本勝利によって,琉球の所属の問題は実質的に解決された。