●律令格式(日本) りつりょうきゃくしき
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中国において発達した成文法典。日本・朝鮮などの周辺諸国に影響を与え,それぞれの国でも制定施行された。律は禁止法で今日の刑法,令は命令法で今日の行政法・民法・訴訟法その他に相当,格は時勢の変遷に応じて律令を改正し,補充した単行法令,あるいはそれらを集成した法典,式は律令格の細則規定に相当する法典。【中国の律令格式】中国における法典制定の歴史は古く,紀元前4世紀になった『法経』に始まるとされるが,実在を疑う人が多い。戦国の世を統一した秦は『律』6篇を公布したと伝える。ついで漢は紀元前200年あご『九章律』を制定した。漢には令も存在したけれども,隋・唐の令と同じであるかどうか疑問である。禁止法たる律,命令法たる令の制定は,晋の『泰始律令』(267)が始まりである。南北朝期にはいると,北朝では北魏の『太和律令』(492)・北斉の『河清律令』(564),南朝では梁の『天監律令』(503)などが公布されたが,整然と体系化したものになるのは,隋・唐に至ってからである。その点で,隋の初代皇帝文帝が581年ごろに編集したといわれる『開皇律令(かいこうりつりょう)』は画期的法典である。以後,律令は皇帝の代替りごとに修正公布されるたてまえをとっている。2代煬帝(ようだい)は607年に『大業律令』を公布した。唐になると,初代皇帝高祖は『開皇律令』を模範として採用し,624年に『武徳律令』を施行した。ついで2代太宗は,律令に新しく格式を加えて本格的編集事業を遂行し,637年に『貞観格式(じょうがんきゃくしき)』を公布した。その後,高宗による『永徽律令格式(えいきりつりょうきゃくしき)』(651),則天武后による『垂拱律令格式(すいきょうりつりょうきゃくしき)』(685),中宗による『神龍律令格式』(705),睿宗による『太極律令格式』(712),玄宗による『開元七年律令格式』(719)・『開元二十五年律令格式』(737),が相ついで公布された。とくに開元25年度のものは改正も大幅であったが,皮肉にも唐朝最後の法典となった。ところで唐の滅亡後も,その律令格式は宋・元・明・清と歴代王朝に受け継がれてゆき,中国法制史上,基本法典として重要な役割を果たしたのである。
【日本の律令格式】中国の律令格式を受け継いで,日本でも7世紀から10世紀にかけて,中国のそれを模範としながら,わが国独自の律令と格式を制定施行した。『近江令(おうみりょう)』・『浄御原(律)令(きよみはら(りつ)りょう)』・『大宝律令(たいほうりつりょう)』・『養老律令(ようろうりつりょう)』および『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』・『貞観格式(じょうがんきゃくしき)』・『延喜格式(えんぎきゃくしき)』である。『近江令』22巻。天智天皇のときに,中臣鎌足らが中心となって編集したところの,わが国最初の成文法典。『弘仁格式』序によると,その制定は668年(天智7)のこととしているが,『日本書紀』には関連する記事がみえない。しかし『日本書紀』には670年の庚午年籍の作成,671年の冠位26階制および太政官制などの施行に関する記事があり,これらは令が漸次施行されていったことを示すものと考えられる。ところで『近江令』は,成文法典として存在しなかったとする学説がある。またこの令は672年におきた壬申の乱の直後に,廃止されたとする説がある。
『浄御原(律)令』令22巻。天武天皇・持統天皇の治世に制定施行された成文法典。『日本書紀』にみえる関連記事をまとめると,681年(天武10)皇太子草壁皇子を主宰者として編集事業が開始され,8年後の689年(持統3)に至って令22巻が班賜された。諸司への班賜が一括施行ではなく,685年に爵位制・衣服制が施行され,ついで690年に官制がようやく施行され,同年戸令による造籍(庚寅年籍)が実施された。要するに,長年月のあいだに,必要に応じて,漸次,部分的に施行されていったのである。なお成文法典としての律の存在は否定する見解が有力である。
『大宝律令』律6巻・令11巻。文武天皇のときに制定公布された成文法典。編集事業の開始時期は明らかではないが,697年(文武元)文武天皇即位前後のことであろう。編集者は主宰者刑部親王のもとで,藤原不比等以下総勢19名が参加して遂行された。完成・施行の経過は『続日本紀(しょくにほんぎ)』に詳述されており,令は701年(大宝元)に,律は702年に,それぞれ施行された。すなわち初めて律と令が揃って完成し,ただちに施行された意義は重要で,ここに律令制にもとづく国家体制が確立したのであり,以後757年(天平宝字元)までの約半世紀間,古代国家の全盛期に実効力を発揮した律令である。
『養老律令』律10巻・令10巻。元正天皇のときに編集された成文法典。この法典も編集事業の開始時期が不明であるが,首親王(おびとしんのう,のちの聖武天皇)が立太子した714年(和銅7)ごろであろう。編集は藤原不比等の主導のもとに大和長岡らが参加して推進され,721年(養老5)末か722年初めごろに終結したらしい。718年に完了したとする説には疑問がある。この律令の施行は757年である。なお,この律令の内容は律の一部と,令の大部分が『令義解(りょうのぎけ)』『令集解(りょうのしゅうげ)』という法解釈書のかたちで現伝されている。
唐では律令と同時に格式も施行したのであるが,日本では8世紀には格の場合,法典としてまとめることはせず,式の場合も『式部省例』『民部省例』のごとく諸司ごとにまとめられていた。ところが延暦年間(782〜805)に至り,格式編集の機運が盛り上がってきた。『弘仁格式』格10巻・式40巻。嵯峨天皇のとき,藤原冬嗣・秋篠安人ら総勢6人が編集した。820年(弘仁11)にいちおうでき上がり,格は同年ただちに施行されたが,式の方はさらに修訂作業がつづけられ,830年(天長7)公布。701年(大宝元)から819年までの格式を収載している。
『貞観格式』格10巻・式20巻。清和天皇のときに,主宰者は初め藤原良相のち藤原氏宗が受け継ぎ,総勢8名で編集した。869年(貞観11)に格を進上し,同年ただちに施行,ついで871年式を奏進し,同年施行した。なお,この格は『弘仁格』完成後の820年から868年までの49年間に公布された詔・勅・官符を集成したもの,式は『弘仁式』収載のうち改訂しないものは登載せず,820年から871年までの52年間に増補したものを整理分類した。だから,『貞観格式』の施行によって,『弘仁格式』は廃棄されるのではなく,両方を併用することによって目的が達成される。
『延喜格式』格12巻・式50巻。醍醐天皇のとき,主宰者藤原時平以下総勢14名の編集者が,905年(延喜5)に事業を開始し,格は907年(延喜7)に完成して翌年に施行された。これは869年から907年までの39年間の詔・勅・官符を整理収載したものであるから,『弘仁格』『貞観格』との併用を前提としている。格の施行後に着手した式の編集ははかばかしく進行せず,編集者の死去も相つぎ,藤原時平の死去後は弟の藤原忠平が主宰者となって事業を継続し,927年(延長5)に,いちおう進上した。しかしその後も改訂作業がつづけられ,施行はそれから40年後の967年(康保4)のことであった。なお『延喜式』は『弘仁式』と『貞観式』とを併せ集大成するとともに,追加補訂を加えて整理分類したものである。
以上,弘仁度・貞観度・延喜度の格式を総称して三代格式と呼ぶが,現在完全に伝えられているのは『延喜式』50巻のみである。なお三代の格を再編成したものに『類聚三代格』がある。
〔参考文献〕滝川政次郎『律令の研究』1931,刀江書院
押部佳周『日本律令成立の研究』1981,塙書房
虎尾俊哉『延喜式』1964,吉川弘文館