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●リットン報告書 リットンほうこくしょ

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 満州事変後,国際連盟から現地状況調査に派遣された調査団の報告書。

【満州事変と国際連盟】日清・日露戦争以来,満州(中国東北部)を中心に大陸政策をすすめてきた日本は,中国の諸利権回収運動の激化に遇い,各種権益の維持・拡大を企画して,1931年(昭和6)9月18日満州事変を発生させた。満州事変が発生すると,中国国民政府はただちに国際連盟にもちこみ,平和維持のために国際連盟がただちに効果的な方法をとることを求め,日本の軍事行動の即時停止,事変前の現状維持への復帰,中国に対する損害補償,等々を主張するにいたった。同年9月22日に国際連盟理事会は事変に関する審議にかかったが,日本の国際連盟代表芳沢謙吉は,中国の主張に反発して,日本の軍事行動は南満州鉄道等の権益を擁護しようとする自衛手段にすぎないことを強調し,事変は日本・中国の両当事国間の協議によって解決可能な地域的事件であると説明して,国際連盟の介入を暗に批判し,またイギリス代表の調査団派遣案も拒否した。国際連盟は日本と中国に,軍事行動の停止を求める勧告を発するにとどまり,問題の解決は国際連盟の懸案事項となり,連盟はアメリカをはじめとする各国の動向を探りながら解決の方向を求めた。この間,日本は南満州鉄道維持のための自衛を理由に軍事占領の拡大をつづけ,また国際連盟理事会に対しては,中国における排日運動の激化が,日本の自衛行動をやむなくしていることを主張し,満州に対する領土的野心のないことを強調しつづけた。同年10月13日の国際連盟理事会では,日本代表と中国代表の討論の場と化し,両者の主張はまったく平行線をたどるだけで,連盟は解決の糸口を見いだすことができなかった。国際連盟理事会の第3回会議は同年11月16日から約1カ月つづけられた。この間,連盟内での日本に対する批判が強まってきたために,日本は当初拒否していた調査団をむしろ条件付で受け入れることを有利であると考え,日本軍撤退に関する期限を削除することを条件に,現地調査団提案を受け入れることを決した。以上のような経過のもとに,同年12月10日国際連盟理事会は,現地状況調査のための調査団の派遣を布告した。

【調査団の派遣】国際連盟理事会によって決定された調査団の構成は,団長リットン卿(英)のもとに,クローデル中将(仏)・マッコイ少将(米)・アルドロヴァンディ(伊)・シュネイ博士(独)の五委員よりなるものであった。そして,この五委員に協力する者として,日本と中国より各1名の陪席者を加えることとされ,日本より外交官吉田伊三郎,中国より外交官顧維鈞の参加が決定された。リットン調査団は1932年(昭和7)2月末に満州に到着し,以後約4カ月にわたって事変を中心に,満州を含む中国の状況調査を実施した。

【報告書の特色】1932年(昭和7)6月初までに現地調査を終了させた調査団は,同年8月までに報告書を作成して,国際連盟理事会に提示した。同年10月2日に公表された報告書は,(1)中国とその東北部および日本との関係,(2)日本と中国との紛争解決に関する結論,(3)国際連盟理事会の提案の3部よりなるものであった。第1部では中国・満州の実情を論じて,満州が中国の構成部分であることを認め,満州事変そして満州国の設立問題を日本の侵略の結果であると断じた。しかし提案と結論では,日本の満州における権益を認め,事変前への現状復帰は紛争をいっそうひどくする可能性があるとして,日本と中国間に満州に関する新たな協定を勧告する等々,妥協的結論を提案しているものであった。しかし満州国の設立へと独走していた日本は,報告書の内容に反発し,国際連盟がこれを採択するや,1933年(昭和8)3月連盟を脱退するにいたった。

〔参考文献〕ジューコフ他,相田重夫他訳『極東国際政治史』1957,平凡社

満州国史刊行会編『満州国史』1970,第一法規出版