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●律宗 りっしゅう

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仏教の教典は、内容が経・律・論の3部に分かれ、これを総称して三蔵というが、大多数の宗派が経と論を所依として成立しているのに対して、この宗派のみは“律”を所依として成立している。律とはサンスクリット語の優婆羅叉で、毘奈耶と音訳され“除去”の意味。釈尊在世当時より教団の弟子のなかに非行があると、その除去のため禁止と罰則の法が規定され、それによって修行の規律が保たれ、出家教団として成立してきた。律のことはすでに阿育王の法勅(前3世紀ごろ)にみえるが、インドでは釈尊滅後100年ごろまでに、法蔵部の四分律・説一切有部十誦律・化地部の五部律・大衆部の僧祇律・飲光部の解脱律の五部に分かれ、どの教団でも入団に際し、戒律を授りその護持を誓約することが僧侶ないし仏教徒になる前提であり、律典は戒・定・慧の三学の一として重要視され、その研究や講義は精力的になされたが、律典を所依として一宗一派を形成することはなかった。魏の252年(嘉平4)に曇柯迦羅(法持)が中インドから洛陽に来て白馬寺で『僧祓戒心』を訳出し、授戒したのが中国における律の伝来である。以後、律典が漢訳され、初め“十誦律”が多く行われたが、410年から442年にかけて長安で“四分律”が訳出され、北魏の法聡が初めてこれを研鑽、憲光(468〜537)の弘法により“四分律宗”が盛んになった。唐代初期にいたってこの系統に立つ道宣(596〜667)が出て中国の律宗を大成し、“南山(律)宗”を開き、一方、法礪(569〜635)も四分律を研究して“相部(律)宗”をその弟子の懐素(629〜697)は師の説を批判して“東塔(律)宗”を開き、中国律宗は全盛期を迎えたが、やがて相部宗東塔宗は衰え、南山律宗のみが栄え宋代までつづいた。もともと四分律は成実論にもとづく小乗仏教系のものであったが、道宣は分通大乗を説き、その後南山律宗は大乗系の戒律も取り入れ、十重禁戒や三聚浄戒を説いた。三聚浄戒は身心を清らかにする教えを集めた三つの戒律の意味で、戒律を守ること、善法を保つこと、つねに衆生の救済を願う菩薩行を行ずることで、大乗菩薩戒を代表するものであるが、この戒律を守ること(摂律儀戒)の内容を小乗四分律の580戒をもって充て、律宗は大乗戒を唱えながらも、小乗の戒律を包摂するにいたった。日本における戒律の伝来はかなり古く、588年(崇峻天皇1)尼善信が百済に赴いて戒法を学び、天武天皇のとき道光が入唐して律宗を学んだ。ついで736年(天平8)華厳宗とともに戒律を伝えた。733年に入唐した栄叡・普照の勧めによるものである。しかし戒律を伝えたとはいうものの、これを講義するのみで、正式に戒を授り、これを護持実践して身心を清浄にし解脱にいたるというものではなかった。こうして真の授戒を求める気運がしだいに熟してきたなかに、5度の渡海の不成功と、そのための失明にもかかわらず来日して真の律宗をわが国に伝えたのが南山律宗の過海大師鑑真和上(688〜763)である。鑑真の渡来も栄叡・普照の勧めによるものであるが、754年(天平勝宝6)来朝するや東大寺に戒壇をつくり、天皇・皇后以下440人余の沙弥に授戒した。こののち、東大寺に戒壇院を建立し、公認の授戒の場とした。ここにわが国の律宗の成立をみる。ついで唐招提寺を建立して律宗の根本道場とし、さらに下野の薬師寺・筑紫の観世音寺にも戒壇院を設け、日本の僧尼は必ずこの三戒壇院の一つで具足戒を受けることになった。しかし歳月の経過とともにそれも有名無実となり、律宗もまた衰微したが、1111年(天永2)ごろ、興福寺の実範が戒律復興に乗り出し、ついで仁治年間(1240〜43)、覚盛四条天皇に菩薩戒を授け、唐招提寺に住し律宗中興の祖と称せられた。睿尊は西大寺にあって戒密を唱え、後に“真言律宗の祖”といわれた。こののち、東大寺に『八宗綱要』の著者の凝然(1240〜1321)が出て、華厳と律の調和を唱えて戒壇院の伝統を示し、幕未、河内の慈雲尊者飲光は正法律を唱え、ともに律宗の振興に影響を与えた。現在の律宗は明治の一時期、真言宗に編入されたこともあったが唐招提寺を本山として独立。所属寺院は24カ寺。

〔参考文献〕鎌田茂雄『中国仏教史』全7、1982〜、東京大学出版会

『日本仏教基礎講座1 奈良仏教』1979、雄山閣


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