●立憲民政党 りっけんみんせいとう
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立憲政友会と並ぶ昭和前期の2大保守政党の一つ。昭和初期,憲政会・立憲政友会・政友本党が党利党略の党争に明け暮れるなか,1927年(昭和2)田中義一立憲政友会内閣の成立に伴い,憲政会・政友本党合同の気運が進行,まず両党現在のままで新党倶楽部が組織され(憲本連盟),6月1日立憲民政党に改組され結党した。総裁に浜口雄幸,顧問若槻礼次郎・床次竹二郎・山本達雄・武富時敏,総務に町田忠治らが就き,政治綱領に〈議会中心政治ヲ徹底・社会不安ノ禍根ヲ芟除・国際正義・教育ノ実際化・時代錯誤ノ陋習ヲ打破〉を掲げた。政友会に比して都市ブルジョワ的・自由主義的色彩をおび,金融資本・三菱との結びつきが強かった。翌1928年総選挙で政友会217名に匹敵する216名となり2大政党となった。1929年田中内閣の後をうけて浜口雄幸が立憲民政党内閣を組織,幣原協調外交・緊縮財政策を推進したが,統帥権干犯問題をきっかけに浜口首相が遭難すると,1931年若槻礼次郎が党総裁となり第二次若槻内閣が出現した。しかし緊縮財政への批判や満州事変の発生,安達謙蔵一派の政党連立による挙国協力内閣論により崩壊した。1932年総選挙で146名に減少し,五・一五事件以後は斎藤実・岡田啓介内閣に準与党の立場をとった。1934年若槻が総裁を辞任,翌35年1月町田忠治が後任総裁に就任,1936〜37年総選挙で第一党となり,天皇機関説や軍部・政友会との提携運動に積極的に活動した。しかし二・二六事件以後の軍部優位の政治状況のなかで,政党の指導力を回復できず,党内部に近衛文麿を党首とする新党樹立運動が展開されて,1940年7月25日永井柳太郎一派40名が脱党,8月15日ついに解党し,近衛の新体制運動に吸収された。〔参考文献〕山本四郎『日本政党史』1979,教育社新書