●李朝 りちょう
アジア アジア AD
朝鮮史上最後の王朝李氏朝鮮の略称。威化島の回軍により中央政界の実力者になった李成桂(太祖)は,政治の指導権を掌握してしだいに高麗王朝の旧勢力を追放し,ついに臣下の推戴を受けて,1392年7月17日開京(開城)の寿昌宮で王位に昇った。初めは急激な民心の動揺を防ぐために国号もそのまま高麗としたが,のちに朝鮮と変え,人心を新たにするために都も漢陽に移した。太祖は儒教を尊重してこれを政治・教育の根本理念とし,対外的には藩属国として宗主国の明に仕えることによって国の安全を確保した。この2政策は李朝の根本政策として長く継承された。1398年(太祖7),1400年(定宗2)の2度にわたって王位継承をめぐり王子の乱がおこったが,窮極的勝利を得た芳遠(太宗)が王位に昇り,王権確立に努力した。つづいて世宗による燦爛たる民族文化の形成と世祖・成宗のめざましい治績によって李朝の制度と文物が大体完成し,中央集権的政治体制を形成した。しかし,時代がくだるにつれて制度の欠陥が現れた。とくに支配階級の経済的基盤である土地制度の紊乱に伴う勲旧宰相の大土地所有は,土地分配の恵沢を受けえない新進士類の不満を増大,幾度か士禍という惨劇をひきおこした。初めは新進士類がたびたび禍を蒙って官職をやめて地方にくだったが,宣祖のときには彼らを登用し始め,ついに士類が勝利を収めた。しかし今度は士類間に再び対立が生まれ,自己の一派のみが政権を掌握するために代々たがいに闘争を行った。これを党争という。このようになると,初めは地方の子弟を教育するために立てられた書院がついにはみな広大な土地を所有して地方勢力の中心をなし,党争の基盤にもなり,はなはだしい弊害を現出した。このような李朝社会自体の矛盾と分裂・対立に乗じた7年にわたる倭乱(壬辰・丁酉の乱)と2回の胡乱(丁卯・丙子の乱)が発生,侵略と破壊行為による被害は莫大となり,国土は荒廃し国家財政は涸渇し百姓は悲惨な生活を強要された。このような破綻に直面した社会の危機を免れるためには兵制と税制の改変が不可避になり,一方では百姓に対する不当な課税が盛行した。これは極度の貧困に迫られた百姓をいっそう困窮させ,農村社会の荒廃はその極に達し,政府に対する反抗意識を助長した。壬辰倭乱を契機に顕現した惨憺たる社会の現実と清を通じて入ってきた考証学および西洋文物から影響を受けて実際社会に利益のある学問,すなわち実学が台頭して多くの学者と著書が現れたが,実際政治にはまったく適用されえなかった。これと前後して天主教が伝来したが,はなはだしい迫害を受け,安東金氏らによる勢道政治は3政の紊乱を招来して農村社会の不安と反発をいっそう激化した。こうして全国各地で農民反乱が生起し,純祖時代の洪景来の乱・哲宗時代の晋州の民乱などはその代表的なものである。高宗の生父として政権を握った大院君は,果敢な内政改革で善政も行ったが,世界状勢に暗く鎖国政策を固執して西洋軍艦の攻撃を受けた。大院君が退き閔氏一族の政権掌握時,雲揚号事件を契機にやむをえず日本と江華島条約(丙子修好条約)を締結,世界に門戸を開放した。こうして新文化を輸入して内政と制度の刷新をはかった。いったん門戸が開放されると,外国勢力が躊躇なく浸透して国の運命は危機に直面した。両班官僚の苛酷な圧迫は農民の反発を招いて東学党の乱をひきおこした。この乱を契機に日・清2国は李朝に軍隊を派遣した。その結果として日清戦争がおこり,清の勢力は後退し日本の勢力は強化されたが,その後ロシアの勢力が浸透してしだいに親日派を追放して親露政府を立てた。こうして李朝をめぐる日本・ロシアの対立は激化して日露戦争となった。この戦争で勝利した日本は李朝におけるすべての権利を次々に独占し,1910年(明治43)には日韓合邦条約を締結して李朝の主権は完全に日本に奪われた。〔参考文献〕梶村秀樹『朝鮮史』1977,講談社
朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』1974,三省堂