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●李朝(ヴェトナム) りちょう

アジア ベトナム社会主義共和国 AD1009 リ朝

 ヴェトナム最初の本格的長期王朝(1009〜1225)。9代216年間存続した。王朝創建者は北寧(バクニン)出身の李公蘊(リイコンウァン,太祖)である。李公蘊は即位の翌年,都をトンキン=デルタの中心昇龍(タンロン,ハノイ)に移し,この年を順天元年と定めた。そして,税制や徴兵制を制定し,皇帝直属の禁軍十衛を設置するなど,李朝政権の基礎を固めた。1054年になると,2代目太宗は国号を大越と改めた。李朝では,1075年から科挙試験を実施したとされるが,まだ定制となるにはいたらず,実際に政治を動かしたのは,皇族・貴族・宦官・僧侶であり,とりわけ僧侶の国政参加がこの王朝の政治史を著しく特徴づけた。李朝は,北方に対しては,宋朝との外交関係を重視して遣使外交を繰り返し,鋭意,善隣友好につとめた。一時,国境問題の不確定などが原因で宋軍のヴェトナム進攻(1076)があったが,李常傑(リイトゥオンキエット)の率いた大越軍は,これを如月江(ニューグエット)で撃破し,よく国難をしのいだ。李朝側の友好的態度とねばり強い外交姿勢は,宋の皇帝から李の皇帝に除授される王号にも変化をもたらし,交趾郡王から交趾郡王・南平王・南越王への昇格についで,1174年には,念願の安南国王の称号を獲得するにいたり,ついに,当時の中国皇帝を中核とする冊封関係のなかで,李朝の皇帝は近隣諸国の首長と同等の地位を得ることに成功した。一方,南隣の占城(チャンパ)に対しては,積極的進攻作戦をとった。とくに,1044年の太宗の親征では,チャンパの首都ヴィジャヤ(ビンディン)を陥れ,国王ジャヤ-シンハヴァルマン2世(作斗)をはじめ,3万余人を殺し,5,000余人を捕虜にしたと伝えられる。ついで,1069年に行われた3代目聖宗の親征においても,ふたたび首都を攻略し,国王ルドラヴァルマン3世制矩)を生け捕りにし,その釈放の代償としてクアンビンからクアンチにいたる地哩・麻令・布政の3州をヴェトナムに割譲させ,その領域をフエ近くにまで拡大した。いわゆる「南進(ナムティエン)」の開始である。李朝は,太祖から仁宗までの4代が隆盛期で,7代目高宗のころから政治の求心力を失い,各地に内乱が続発した。その平定に功のあったのが外戚の陳氏で,8代目恵宗の病弱に乗じて実権を握った「陳守度(チャントード)」が甥の「チャンカイン※注1※」と李朝最後の女帝昭皇とを結婚させ,ちゃんかいん※注1※の即位により李朝は滅んだ。

 李朝は唐・宋の諸制度を摂取し,皇族・皇親を中心とした政治体制をとったが,最近の研究によると,この王朝は在地豪族連合の盟主的存在にとどまり,その直轄支配地も狭小であったという。李朝の経済的基盤の詳細は不明だが,1013年の記録によれば,王朝の収入源として,潭池田土・桑洲銭穀・山源藩鎮産物・蛮リョウ※注2※犀象香料・源頭木条花果などがあった。仁宗のときに,毎畝3升を徴し,これを軍糧に供したという記録もある。同じ仁宗の統治期に,唐・宋の律令に多くを学んだと推考される『刑書』を編さんし,一代の刑律とした立法活動も看過できない。外国貿易では,北辺において宋に対し通商を強く働きかける一方,自国の港湾における交易では一定の統制を加えた。『宋会要輯稿』には,アラブ商人がヴェトナムの銅銭(黎字銭・砂鑞銭)を広州に持ちこんでいたことが記され,ヴェトナムの対外通商活動を知る上で興味深いものがある。この王朝は龍崇拝と関係が深く,会盟・競渡・戦争・身分制度などにこれを色濃く反映していた。また,歴代の諸帝は仏教を尊崇・保護し,多数の仏寺を建立したため,李朝では仏教が隆盛を極め,〈僧尼民間に半ばし,仏寺天下に満つ〉(『越鑑通考総論』)状況を現出した。宋に三蔵経を求めたことも両国の文化交流史上みのがせない。法要時における恩赦の発布,仏教の影響による刑罰の軽減も,この王朝の特徴であろう。さらに,聖宗は1070年,ハノイに文廟を設けて孔子を祭り,国子監を建てるなど,儒学の奨励にも意を用いた。

〔参考文献〕桜井由躬雄「李朝期(1010〜1225)紅河デルタ開拓試論」東南アジア研究,18―2,1980

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