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●陸游 りくゆう

アジア 中華人民共和国 AD1125 北宋

 1125〜1210(宣和7〜嘉定2)中国南宋の代表的詩人。字は務観,号は放翁。越州山陰(浙江省紹興県)の人。陸佃の孫。29歳のとき,蔭で入官し登仕郎となる。のち進士の首席に擬せられながら,当時権勢を誇っていた宰相秦檜(しんかい)の孫が第2位に置かれたので,檜にねたまれて退けられた。久しく逆境にあったが,檜の没後,孝宗が即位して枢密院編修官に昇進し,38歳のとき進士出身を賜わり,聖政所検討官に起用された。金と和議が成立しようとするとき,彼は主戦論を唱えたため,地方官に移され,各地の通判(州の長官の下)をつとめた。46歳のとき(1170),キシュウ※注1※(四川省)の通判としてこの地に赴いた。このときの紀行文が『入蜀記』である。任中にまた主戦論を主張して中原を奪取すべきことを進言するほど,憂国の士として行動している。1175年(淳煕2)彼は再び四川制置使参議官として成都へ入った。四川制置使の范成大と詩文をもって交わり,礼節にこだわらなかったので,人々のそしりを受けた。そこで自ら放翁と号したという。光宗が即位すると1190年(紹煕元)礼部郎中兼実録院検討官になり,ついで寧宗の時代1202年(嘉泰2),『孝宗実録』『光宗実録』などを編集し,翌年この業が成ると,宝章閣待制に昇進し,ついに退官して85歳で没した。彼は主戦論を唱えて政治的には不遇であったが,詩人としては優れた作品が多い。彼の詩風は唐代の杜甫を継承したもので,ことに憂国の情をうたっている点に通ずる所がある。また晩年,家居して田園生活に取材した諸作品は,彼独特の円熟した詩境を備えている。所作1万首を超え,南宋第1の詩人として称賛され,その詩風は剣南派としてのちに伝えられた。著作は数多く,『剣南詩稿』85巻・『謂南文集』50巻・『放翁詞』1巻・『南唐書』18巻・『老学庵筆記』10巻など。

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