●ラ=ペルーズ
ヨーロッパ フランス共和国 AD1741 フランス王国
1741〜88 フランスの航海者。アルビの近郊で生まれ,1756年海軍に入り,1759年イギリスの捕虜となった。クックの第1回航海(1768〜71)の報告が1772年フランス語で出版されると,国王ルイ16世は太平洋地域に対する関心をかきたてられた。しかしフランスの太平洋探検計画は1770年代を通じて延期を繰り返し,1785年にいたってラ=ペルーズ指揮のもとに商船2隻を派遣した。8月両船はブレストを出帆して南米をめざし,ホーン岬をまわってイースター島(1786年4月)・サンドウィッチ諸島(現在のハワイ)を訪れた。太平洋側からの“北西航路”発見を目的として北米に向かい,アラスカ南部の海岸に達し(6月),沿岸を南下してサンフランシスコをへてモンテレーに達した。ついで太平洋を横ぎり,1787年1月マカオにいたり,さらにフィリピン・台湾を訪れ,日本海を通り,サハリン島と中国東北地方をへだてる間宮海峡に達した。またサハリン島と北海道のあいだの宗谷海峡(別名ラ=ペルーズ海峡)を通過した。カムチャツカ半島のペトロパブロフスクから探検日誌と地図をフランスに送った(1797年パリで出版された)。ついで南下してナビゲーターズ諸島(現在のサモア諸島)に到着した。1787年12月,同諸島のツツイラ島で襲撃を受け,部下11名が死亡し20名が負傷した。その後フレンドリー諸島(現在のトンガ)からオーストラリア南東部のボタニー湾に到達した(1788年1月24日)。6日前にイギリス艦隊がきていたが,関係は良好だった。しかし3月10日同地を出帆したラ=ペルーズは以後ようとして消息を絶った。フランスは捜索隊を派遣したが手がかりは得られなかった。約40年後の1826年,サンタクルーズ諸島のバニコロ島で発見された残骸について,イギリスのピーター=ディロン船長が報告した。翌年再訪した船長は,遺品と原住民の話から,明らかにラ=ペルーズの所属とみられる船2隻が,1788年バニロコ島で難破し,船員のある者は殺され,残りはボートをつくって乗り出したが行方は不明である,との結論に達した。1828年フランスの探検家デュモン=デュルヴィユも残骸を視認し,約30人の乗組員が虐殺され,武装の厳重な者はのがれた旨を確認した。しかしラ=ペルーズの最期は明らかにされなかった。ブーゲンビルの長子は,1824〜26年の探検の際,ボタニー湾の北の岬にラ=ペルーズの記念碑を建立した。