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●ラファイエット

ヨーロッパ フランス共和国 AD1757 フランス王国

 1757〜1834 フランスの軍人・政治家。オート=ロワール県シャヴァニャック城の生まれ。父は擲弾兵大佐で,七年戦争の初期に死去。母系とも名門貴族に属す。アメリカ独立戦争に共鳴し,自費で帆船を建造し,兵を率いて1777年,ジョージタウンに上陸。同年のブランディワインでの戦いで負傷したが,回復後も植民地軍を援け,1779年にいったん帰国し,フランス政府にアメリカ援助を働きかけ奏功。2度目の来援では,ワシントンが提供した部隊を率いヴァージニア防衛とヨークタウン攻略を果した。1787年名士会でブリエンヌとともにカロンヌ攻撃を行って退陣に追いやり,全国三部会の召集を率先して要求した。オーヴェルニュ地方リオンの貴族身分会から三部会に選ばれ,自由主義貴族として国民議会に合流。人権宣言草案の作成では,ジェファソンの指示をうけ,権力の分立・抵抗権を盛り込んだ案文を作成した。バスティーユ占拠の翌日,パリ国民衛兵隊総司令官に選ばれ,ヴェルサイユ行進でも王家の窮地を救った。1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件では国王のパリ帰還を主務と考え,7月17日のシャン=ド=マルス請願運動では共和政を求めるコルドリエ協会員とパリ民衆に銃先を向け,多数の死者を出した。オーストリアとの開戦後,前線に立つが,攻撃不能を宣言。1792年6月20日の国王拒否権に反対する示威運動を攻撃,ついでジャコバン協会の武力による解散を企てたが失敗した。王妃マリー=アントワネットにも信用されず,パリ世論からも敵視され前線に戻るが,1792年8月19〜20日の夜,オランダ国境をめざし逃亡をはかり,途中オーストリア軍に捕えられる。ヴェーゼル・オルミュッツなどを転々とし,1797年9月,カンボフォルミオの和約の特別条項で釈放される。ブリュメールのクーデタ後帰国するが,政治活動は控え,ブリの城にひきこもる。百日天下で代議院に選ばれ,ワーテルローの戦いのあとナポレオンに退位をすすめた。復古王朝下で1818年にサルト県選出議員となり,リベローの旗手となる。1825年,アメリカに凱旋旅行をしたのち1827年再び衆議院に選ばれ,1829年ポリニャック内閣打倒に貢献,ルイ=フィリップをかついで七月革命の推進者の一人となった。同月末にまた国民衛兵総司令官となり,ラフィットと行動をともにした。1831年,カジミール=ペリエが組閣してからは野党に転じた。回想録(1837〜40に出版)を残し,『書簡集1793〜1801』(1903出版)もある。

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