●楽市・楽座 らくいち・らくざ
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16世紀半ば以降,戦国時代末から安土桃山時代にかけて,特権商工業者の市場独占を排除するために出された法令および商業政策。中世の商工業者は特定の社寺・公家衆に属し,荘園制的なさまざまな課役を課されていた。その代わり社寺・公家衆の保護により市場や座を形成し,独占営業権を保証され,座衆以外の者の営業は禁じられていた。この独占営業権の代償として,市場には座銭・市庭御公事銭などの座税が,座衆には年貢諸公事が課せられていた。しかし応仁の乱後,商品経済の発展に伴って勃興してきた従来の座に属さない新興商工業者のあいだに,旧来の秩序を打破しようとする動きが現れてきた。一方,各地に割拠していた戦国大名は,領国内の経済の保護・育成・支配のため,荘園制的市座制度の廃止をめざし市場税を免除するなど,しだいに諸税を免じ,領国内の商工業者の往来を自由にすることによって他国商人を積極的に集住させるようになった。また,新しく城下町を建設したり,宿場を再興したりするときなど,とくに他国商人の集住を促進する必要があるときに,旧来の市場特権を否定する政策をとった。この座衆の特権の撤廃と市場税免除を楽市という。1549年(天文18),近江の六角定頼が観音寺城下石寺の新市を楽市としたのはその最も早い例である。そのほかの例として,1566年(永禄9)今川氏真が駿河の大宮を楽市としたのをはじめ,徳川家康の三河小山市,北条氏政の武蔵世田谷新宿,北条氏直の相模荻野村・武蔵白子郷,松永久秀の大和多聞山城下,蒲生氏郷の近江日野・伊勢松坂,豊臣秀吉の播磨姫路,豊臣秀次の近江坂本などをあげることができる。1578年(天正6)世田谷新宿の六斎市を楽市とした楽市制令は〈一,押買狼藉を堅く停止せしむる事 一,国質郷質はこれを取るべからざる事 一,喧嘩口論を停止せしむる事 一,諸役一切有るべからざる事〉の4カ条を定めているが,このうち〈諸役一切有るべからざる事〉の条が楽市の最も重要な要素である。しかし,市のなかには本来楽市的性格を有するものもあり,伊勢の桑名湊などは旧来より十楽の津として取引の自由が認められていた。このように戦国大名はすすんで楽市政策をとったが,この楽市が座の否定にまで発展し,楽座と呼ばれた。楽座は旧来の座を否定する語であるが,しかし初期には,社寺・公家衆の抵抗にあい,座の存在そのものを破棄するにはいたらなかった。楽座令の初見は,柴田勝家が1576年(天正4)に越前北庄に施行したものである。織田信長もこれを踏襲し,畿内東国10カ国の販売独占権をもつ大山崎の荏胡麻(えごま)油座はじめいくつかの座の撤廃を試みているが,徹底しえなかった。なかでも,1567年(永禄10)に美濃岐阜城下の加納に,そして1577年(天正5)に近江安土城下に施行された信長の楽市・楽座令はよく知られる。座の撤廃が行われるのは豊臣秀吉の時代に入ってからである。秀吉も一時は洛中洛外の諸座を安堵したが,政権の確立とともに1585年(天正13)以降,諸社寺・諸公家衆に属する商人や職人の座を徹底的に破棄し,同時に荘園領主がもっていた諸役の徴収権も否定した。1587年(天正15)の筑前博多津楽津令,1595年(文禄4)の陸奥会津津若松における蒲生氏郷の楽売楽買令などは,秀吉のとった政策が全国的に行われたことを示す例である。
こうして商工業の中世的統制は撤廃されたが,しかし楽市・楽座政策も取引の完全な自由化を意味するものではなかった。それは商工業における荘園制的な諸役否定の政策であり,この否定によって商工業者は荘園領主の統制下から解放されたが,同時に,戦国大名およびそれ以後の大名によって再編され,近世的な統制下に置かれることになるのである。自由取引の原則は,江戸時代初期,江戸・大坂・京都の3都で局所的に確立したが,これも鎖国後,仲間および株仲間の結成によって破られる。なお,京都の釜座をはじめ,金座・銀座・秤座などの特殊な座は依然として強力な統制下に置かれ座として存続した。