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●世直し一揆 よなおしいっき

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 一揆の性格が,封建支配体制の本質的な部分を否定し,農民にとって望ましい世の中の実現をめざして行われたものを言う。村役人の選挙制・田畑の再配分・年貢の大幅な削減・村入用の拒否・農産物の自由販売というような領主支配の本質にかかわり,絶対認めるはずのない内容を要求し実力行使によってそれを獲得しようとした農民の一揆である。広義の百姓一揆には入るけれども,最近ではむしろ世直し一揆を百姓一揆と区別して考える傾向が強い。つまり江戸時代の百姓一揆は,いかに規模が大きく形が激しくとも,幕藩支配体制を前提とし,その枠内で領主に訴願するという形のものであるのに対し,世直し一揆は,もはや幕藩権力は頼むに足りないと同時に恐れるに足りない存在として見て,訴願という形では自分達の要求貫徹ができないとして,彼等のもてる唯一の力である暴力によって直接収奪者である特権商人・村役人に対して実力行使をした一揆なのである。

【主な世直し一揆】1866年(慶応2)の6月に起こった武州騒動は,世直し一揆の最初の例ということができるが,その発端について〈名栗村上下すべて180人余の者が徒党をくんで,1本には南無阿弥陀仏と記し,もう1本には平均世直将軍と筆太に書いた2本の大旗を先頭に立てて,飯能村に押し出した〉(秩父郡大宮郷いづみや幸七「一揆騒動之果」)と史料に記されている。このように,世直しと記した旗や幟を一揆の先頭に立てたりして,自ら意識して世直しを主張したのである(ただし武州騒動の場合,史料にはあるけれども実際に世直しを意識的に主張したかどうか疑問視する見解もある)。世直し一揆は慶応2年から明治4年までの6年間に全国的に起こっている。

 この期間中に見られる“ええじゃないか”騒動は,世直し一揆の変形と見ることができる。従来,世直し一揆には積極的な変革志向が見られるのに対し,“ええじゃないか”には無秩序な頽廃ぶりが目立つので,両者を竣別すべきだとの意見もあったが,“ええじゃないか”運動のなかのはやしことばに「世直し」あるいは「世直り」が含まれていたし,この運動そのものを当時の人びとが「世直し踊」・「世直り踊」と呼んでいたことからも,同質のものと見る方が妥当である。

【世直し一揆の典型・上州騒動】1868年(慶応4)2月,上野国緑野郡の吉井宿の打ちこわしから上州騒動は始まった。慶応4年2月と言えば前年7月から半年間にわたって,東海・近畿・山陽・四国地方に荒れ狂った“ええじゃないか”の大衆混乱がようやく静まった直後であり,王政復古という形で将軍は廃止されたがいまだ新政府の権力が確立されていない,いわば空隙の時期に当たる。幕府の関東取締出役が,農兵隊取立てのための用金賦課をしたことに対する反対が直接のきっかけではあったが,いったん騒動が起きると一揆勢は,村役人・豪農商の不正利得追及,質地証文借金証文の破棄,質地質物の無償返還,米価引下げ等を要求した。その際一揆勢は,「世直し大明神」の名において豪農商の質物証文破棄や金穀の施しをさせているのである。そして不参加者には,世直し大明神の神罰として焼き打ちの制裁が加えられると明言しているのである。さらに「世直し回状」を村々へ回し,そのなかに〈先達て中,世直しにつき,人数旁(かたがた)より差し出し候得ども,差したる義もこれなし,其の上人殺し等もこれあるに付き,(中略)人殺し敵討(かたきうち)につき,村々人数壱軒につき壱人づつ借用仕りたく,かつ又目立ち候ものハ焚き出し頼み入し候。若しまた手向いなられ候村方は,壱軒も残さず焼き払い申しあぐべく候。此の度の儀は敵討ち方故,村方にても鉄砲これあるものハ,鉄砲持参ならるべく候〉と記しているのである。文中の殺人というのは,吉井藩や小栗領の警備の武士が騒動参加農民を殺害したことを指すのであり,したがって世直しに対する敵討ちとして領主に武器をもって攻撃をしかけることを呼びかけているのである。そこには明らかに身分差をのりこえた農民側の変革の論理が見られるのである。このように〈領主までも征伐〉するのだという農民側の意識は,訴願を旨とする百姓一揆には見られなかったものなのである。

【世直し一揆の発展段階】庄司吉之助の福島県下を中心とする世直し一揆の研究によれば,世直し運動の様相から見てこれを三段階に区切ることができる。第一段階=慶応一年9月〜同2年6月中旬…世直運動の端緒。第二段階=慶応4 年8月末〜同10月下旬(但9月に明治と改元)…戊辰戦争と王政復古宣言に対する無税または半税要求および自由な封建制批判。この段階で世直しの目的と行動が明確にされる。第三段階=明治2年〜同4年の新政反対運動。以上である。そして第二段階の世直しの代表例として会津五郡騒動を挙げることができるが,そこで掲げられた要求項目には,(1)村役人の改選,(2)土地の自由所有と配分,(3)無年貢並びに金納・村入用・諸勘定・籾借用等の事,(4)商業高利貸資本の排除,(5)農産物の自由販売,(6)伝馬制の撤廃,(7)人足賃金の支給,(8)小作地無償返還などが含まれていた。これらを見ても,世直し一揆が封建社会を変革する革命的運動としての性格をもっていたことを窺うことが出来るのである。

【世直しの主体勢力】世直し一揆は,当時広範に農村に形成されていた半プロ層と,半プロ化の瀬戸際にある小生産者とが連繋して豪農商層に対して起こしたものと言うことができる。世直し一揆が激発した幕末段階の農民の実体を階層的に分けてみると,豪農層・小生産者層・半プロレタリアート(略して半プロ層)の三者が認められる。豪農層というのは,地主・問屋制家内工業の問屋・手工業経営者・高利貸などの性格を兼ねていたので,豪農商層とも言うことができるものであった。小生産者層というのは自作農のことであるが,地主小作関係のなかの一部上層小作人も,問屋制家内工業に属する一部上層賃引き・賃織農民も入る。彼らのうち,自作農上層に属する者はつねに豪農への発展・成長をめざしている。一方零細な自作農はつねに半プロへの転化の可能性をもっていた。半プロ層というのは,中・下層小作人・下層自作農民・無高農民・賃引き賃織農民・小規模雑営業者などであって,出稼ぎ型・在村型の賃稼ぎによってその生活を補っている農民である。半プロ層は小生産者になることを望んではいるが,事実上賃労働者としての性格をもっているので両者の意識は必ずしも同じではない。一揆騒動を起こし,地主・村役人のいわゆる豪農商層を打ちこわしたのは半プロ層が主体であり,村落共同体の体制内に必ずしも留まることを望まない彼等の意識から発したことであった。しかし1871年(明治4)以降,新政府によって厳しく弾圧され鎮静化したのである。

〔参考文献〕庄司吉之助『世直し一揆の研究』1970,板倉書房

佐々木潤之介『世直し』1979,岩波新書