●世直し よなおし
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行き詰まった世のなかの状態を望ましい方向へ好転させる意であって,江戸時代後期に多く使われるようになったが,幕末の押しせまった段階では,世直し一揆の主張に見られるように社会変革の意に用いられた。【世直し神の信仰】古くから日本の民俗には,春夏秋冬の四季のめぐりに基づき,暗い冬の次には再び明るく希望のもてる春が来るという思想を背景とした行事があった。また江戸時代には米価の高騰と低落の繰返しのあったことから,凶作で物価騰貴の悪しき世の後には,豊作で物価安定の良き世の中になることを願いそれを世直りと称した。それに弥勒下生の思想が結びつき,さらに富士山信仰の富士講が弥勒信仰と結びついた。江戸を初め各地に多くできた富士講の信者の間に,弥勒がこの世に救世主を送ることによって理想的な世が実現するという信仰が広まった。そのような世の中の変化を世直りと称し,神仏の力によってそれが実現すると考えたのである。
【政治的主張としての世直し】世直しの意味を,為政者の悪政を批判し善政の実現を望む意味で使った最初の例は,1784年(天明4)に,田沼意知を殺害した佐野政言を「世直し大明神」と呼んだのがそれだと言われている。佐野政言は,個人的な怨みが原因で田沼政治の一翼を担う意次の子の若年寄田沼意知を,江戸城中で殺害したのであったが,民衆は彼を権力に抵抗した救世の英雄に祭り上げ,幕政批判をしたのである。1784年(天明4)と言えば,前年の浅間山の大噴火によって,凶作・飢饉がすでに始まっていたし,宝暦・明和期から頻発するようになった大規模な百姓一揆では,打ちこわしも激しく行われて民衆の要求不満がさまざまな形で爆発しつつあった時期である。打ちこわしという形態の百姓一揆は,直接的には領主に対して訴状を出したり要求事項を掲げるのではなく,特権をもって暴利を貪る富裕商人や不当利得を得ている村役人などの家宅を打ちこわすことである。強訴のために蜂起した農民群衆が,城下への往復の途次で打ちこわしをかけたこともあるが,江戸後期になると,領主への訴願をすることなく打ちこわしをかける例が多くなる。暴利や不正を取り締まるべき藩当局が,時に暴利や不正と気脈を通じていたり,またはすでに公正な統治能力を欠いていることを十分承知していた農民が,自らの手で不正を暴くべく非常手段に出た形なのであった。したがって打ちこわしという形態の百姓一揆は,間接的に幕府や藩の権力を否定する意識につながるものではあるが,正面切って封建支配体制や権力を否定するものではなく,既成の権力・体制の枠内での不公平を是正することを主張するものであった。その意味で“世直し一揆”とは性格を異にするのであるが,全く質を異にするものとも言い切れず,そこには連続性も認められるのである。
ところで百姓一揆の際にこの「世直し」が掲げられた最初の例としては,1811年(文化8)九州豊後(大分県)の岡藩の一揆で「四原世直大明神」と大書した高札が建てられたことを挙げている。天保年間に入ると百姓一揆に世直し神が登場する例が多くなるが,1836年(天保7)の三河(愛知県)の加茂一揆では指導者が〈「汝等よく聞け,金銭のあるにまかせ多くの米を買しめ,貧乏人の難渋を顧みず,酒となして高価にぞ,金銭をかすめ取たる現罰逃るべからず,今日只今,世直し神々来て給ふ。観念せよ」と呼はり,家も蔵も一同に打ち崩しける〉(『鴨の騒立』)。また〈「こざかしい,其竹鎗は何にするのじゃ,世直しの神に向っては,ヨモ動く事はなるまい。此方共は喧嘩口論,人を害する所存かつてなし。願の筋叶へばよし,不承知なれば,其家に挨拶する斗り也。世直りの神を招待に出たか。もし防ぐ了簡ならば,現罰を与ん」と吾先きに進み出る〉(同上)。と史料にあるのを見ると,そこでは,豪農商に対する打ちこわしや,騒動への村民の参加を拒絶した村役人に対する打ちこわしが「世直し神」の現罰だと宣言し,さらに防備を固める挙母藩の藩兵に世直し神に向かっては手出しが出来まいと放言しているのである。つまりこの「世直し神」の登場の背景には,多数の貧窮者を生み出しながら蓄財する富裕な商人・高利貸は,それ自体悪であるという認識と,騒動はその悪を懲らしめる当然の行為であってそれは「世直し神」の命に従うものであり,騒動勢は「世直し神」の化身ないし神使であるという主張が存在したものである。そうした認識が一般化するとともに公然と幕藩支配権力に対して,力によって発揮されたのが世直し一揆だということになるのであるが,その時期は幕末もおし迫った慶応段階からだというのが大方の見解である。
【世直し・世直り・世均し】ところで,世直しということばには,前述のように社会的悪を正すという積極的意思が含まれているのであるが,当時世直りということばも使われた。その場合には,寒い冬の後には暖い春が巡ってくるように,米価高値や不景気の後には安定米価や好景気がめぐってくるものと信じ,それが期待通りになった場合を世直りと称したものである。つまり,社会悪の是正に対して主体的参加の立場に立つのが世直しであり,第三者任せの受けとめ方が世直りということになる。ところが,米価安定や好景気到来を望むだけでなく,不当利得に富む者と貧窮者との格差を是正・均分すべしという主張も出て来たが,それは世均しの主張ということになる。世均しの主張は,身分制を基本とする封建制とは根本的に食い違うものであってまさに世直し一揆の一側面を示すものなのであるが,それが公然と噴出したのは,1867年(慶応3)の“ええじゃないか”の大衆運動においてであった。
【ええじゃないかと世直し】この“ええじゃないか”運動の評価については,現在のところ未だ固定的ではない。従来,この運動が異装をして乱舞する無秩序ぶりや,尊王攘夷派の作為的な降札が絡んでいることなどから,体制変革をめざす百姓一揆とは区別すべきだという見解が有力であったが,最近では,百姓一揆と幕末の世直し一揆とを区別すべきだという見解が有力になるとともに,“ええじゃないか”も世直し一揆と同質のものをもっていた点を強調する見解が強くなった。その理由としては,まずええじゃないか運動の主体について見ると,それは町方の前期プロであって世直し一揆の主体である半プロ層と同じ性格と見ることができることが挙げられる。ええじゃないか運動は,多くの場合町・宿から起こり町宿を通して伝播しており,要求事項は富裕者からの施米・施金である。そして注目すべきことは,囃子ことばを唱えつつ群をなして踊り歩いたのであるが,その囃子のなかに「世直し」とか「世直り」のことばが含まれていたことである。全国的に見てこの運動の主体が「世直し」を唱えたと見ることができるのであり,それなればこそ広島でも江戸でも「世直し踊」とか「世直り踊」と呼ばれたのである。ええじゃないか運動は半年間続いたがそれを四つの段階に分けて考え,その第4段階においては,この世直し踊りとしてのええじゃないかにさらに政治性がつけ加えられ,明らかな反幕府の動きが見られるというのである。
【世均しの主張】世直し騒動の主張には,小生産者を貧窮化させるような高利貸・商業活動は不当なものであり,それゆえ,小生産者が極度の窮乏に陥った際には,それら高利貸・商人・豪農がそれまでの蓄財を放出して,小農たちに賑恤(しんじゅつ)するのが当然であって,それを行わないものは不徳の者として制裁を加えられて然るべきであるという考え方があった。つまりそこには財産の平均化への志向が見られるのであり,世均しの主張が存在したのである。その意味では,特権御用商人に依存していた幕藩権力に反抗する側面をもっていたと言えるが,世直しの主張そのものには幕府や藩を否定する思想はない。
〔参考文献〕芳賀登『世直しの思想』1984,雄山閣
佐々木潤之介『世直し』1979,岩波新書