●寄席 よせ
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【定義】1815年(文化12)の序をもつ式亭三馬の『落語中興来由』に〈洋瑠璃・小唄・軍書読み・手妻・八人芸・説経・祭文・物まね尽しなどを業とする者を宅に請じて席の料を定め,看客聴衆を集る家あり,此講席,新道・小路に教多ありて,俗に寄セ場或はヨセと略しても云ふ〉とあるのが,最も要を得たものである。ここに落語が寄席芸に入っていないのは,三馬が落語発達の来由を記す序文としてこの定義を書いたからである。【寄席の演目】寄席で上演されたものは,上記の「浄瑠璃」以下の各種目の他に,1789〜1804年(寛政1〜文化1)ごろに落語(おとしばなし)が寄席芸に加わってきてやがてその主流となるが,その時期は1830〜1844年(天保期)ごろと考えられ,それ以前は「浄瑠理」などの劇場音楽や「小唄」などのお座敷芸,「軍書読み」「手妻」「説経」「祭文」など大道芸などを次々に取りこみながら人寄せの興行を行っていた。
【江戸の寄席の起原】天保の改革のとき,寄席の軒数を制限する場合の基準とされたのは,その創業年次の古さであった。その際,最も早くから寄席興行を始めていたのは三田実相寺門前家持勘助で,1745年(延享2)以来,引き続き寄席渡世を続けてきたことになっている。この年は,江戸市中の寺社門前町が町奉行支配となった年である。一方,寺社境内の場合は,芝神明境内の寄席が2年後の延享4年より続いているものとしてその営業が許されている。ただし,この両者ともに天保改革のときまで営業を続けている寄席の中で最もその創業年次が古いものということで,さらに古いもので途中廃業したものが全くなかったという証拠はない。そして,このころの寄席では浄瑠璃や軍書講釈などが上演されていた。落語の寄席は,1791年(寛政3)に岡本万作が上方より下って橘町二丁目の駕籠屋の二階で夜席を催したのが最初で,1798年6月ふたたび万作は江戸へ下って神田豊島町藁店で寄席を始めた。同月これに対抗して,山生亭花楽(後の三笑亭可楽)は,三人の同好の士と下谷柳の稲荷境内で寄席を興行したが成功しなかった。
【寄席の繁栄】初めは場所も時期も不定で〈芝居休の頃の二町まちの茶屋の二階又は広き明き店など,五六日づゝ借受けて咄す事也し〉(『寛天見聞記』)という状態だった。1807年(文化4)ころまで,職業落語家も輩出し,持ちネタ(レパートリー)が500以上もある咄し家も出るようになり,1815年ごろには,江戸市中に75軒もの寄席があったと言う。都市生活の発達に伴い寄席の軒数もおいおい増加し,1829〜1830年ごろには125軒,天保の改革直前の町奉行所の調査では市中に211カ所の寄席があった。もちろんそこでは落語だけが演じられていたわけではなく,改革の対象は浄瑠璃とくに女(娘)浄瑠璃など女芸人と女の従業員であった。従来,天保の改革で取り締まりの対象から除外されて寄席渡世が認められたのは,先述のとおり,創業年次順に古い方から15カ所のみとされてきたが,これに寺社境内の9カ所が寺社奉行所の許可を得て興行が認められたので,天保の改革下の江戸では24カ所の寄席が「神道講釈或は心学軍書講釈昔咄」に限り,婦人は茶汲みでも差出すことはならず,咄の中に鳴物を使用することも禁止という条件つきで許可された。しかし,庶民の娯楽を一片の法令やそれに基づく取り締まりで一方的に禁止することはできず,1844年(弘化1)には軒数制限は解除され翌年にはたちまち700軒に激増したという。ただし,同年正月23日の番組名主よりの書上げによると,254軒,12月には271軒となっている。この期間に,新作落語が数多く創作され,落語家は師弟組織を通じて寄席の高座で修練を積み,寄席の興行形態も逐次整備され,昼夜7日交代制,前座・真打制・中入り制など,天保のころはほぼ現在に伝わる形が出来上がっていた(寺門静軒『江戸繁昌記』)。木戸銭は16文がふつうだったが,1854〜1859年(安政)ごろには48文という記録もある。
〔参考文献〕暉峻康隆『落語の年輪』1978,講談社
比留間尚「寄席の変遷」『国文学』18−4 ,1973
比留間尚「天保改革の寄席制限令」『話芸研究』1,1981