●吉野 よしの
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奈良県南部の山岳地帯。現吉野郡の中央を走る大峯山脈,すなわち吉野山から山上ケ岳南の小篠(天川村)を経た南の玉置山は,わが国の代表的な山岳信仰の霊域で古来修験道の根本道場として発達し,役行者(役小角)が開いたと伝えられる。『古事記』には神武東征の折,熊野から吉野にたどりついた一行を,吉野の首の祖(井氷鹿)が迎えて大和に案内したと言われる。壬申の乱(672年)のとき,大海人皇子(のちの天武天皇)が吉野に遷幸しそのおり詠んだ〈よきひとのよしとよくみて,よしといひし,よしのよくみよ,よきひとよくみつ〉(『万葉集』)という歌は名勝吉野を有名にした。平安初期に金峯山が七高山の一つとして公家の修法に与り,また大峯修験道の本拠地として上皇・貴族の金峯詣が盛んになった。関白藤原道長・藤原頼通の埋経や師通の登山,白河法皇の二度にわたる御幸などは,当時の金峯詣の盛行をよく示している。次に南北朝内乱期に南朝の本拠地となり,後醍醐天皇陵・行宮跡・如意輪寺など南朝の史蹟,および南朝の皇胤北山・河野両宮の北山庄・川上郷入りなどの物語を生んだ。こうして吉野は,修験道の金峯山・花の吉野山とともに,近世中期ごろからは〈軍書に悲し吉野山〉と詠まれるようになり,多くの人々の吉野登山を誘引したのである。なお吉野の歴史と文化については,これまでの調査では十分でなく,伝承を含めた実証的な検討の必要性が指摘されている。〔参考文献〕堀井甚一郎他編『吉野町史』上・下,1972,吉野町発行