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●吉田松陰 よしだしょういん

アジア 日本 AD1830 江戸時代

1830〜1859(天保1〜安政6)長州藩士、志士。長門国(山口県)萩松本村団子岩の生まれ。名矩方(のりかた)、幼名虎之助、のち大次郎・松次郎。通称寅次郎。宇義卿・子義。別号二十一回猛士。変名松野仙二郎・瓜中真二。萩藩士杉百合之助常道の二男。母は児玉氏、名瀧。6歳のとき代々山鹿流兵学師範を務めた吉田家を継ぎ大助賢良の養子となった。9歳で藩校明倫館に出勤、教授見習。このころ松陰は、風采にこだわらず物に動じない気性でありいつも書物をふところにしていたという。聡明であり、かつ勤勉で早くも10歳で『武教全書』を藩主の前で講じた。13歳のとき松下村塾をおこした叔父玉木文之進から指導を受けた。玉木からは6歳のときすでに孟子の講説を受けていた。家学の後見を務めた文之進の学問は自ら実践することを主としており、その彼から、学問は社会や国家に有用なものでなければならないものであることを、農耕を共にする間に教えこまれた。16歳のとき長沼流兵学を山田亦介に学び、飯田伊之助から西洋陣法を学んだ。世界の大勢に開眼することとなる。18歳で山鹿流軍学の独立師範となり、玉木の家学後見は外された。21歳のとき山鹿流軍学の研究と称し西遊中、平戸から長崎へ行ったが、兵学よりむしろ政治学に注意することとなり世界の大勢を実見しようとの思いが募っていた。このころ英・仏・米各国の軍艦がしばしば来航しており、海防論がさかんに叫ばれており、松陰も藩命により藩領海岸を巡視したり軍学書を著して意見の具申を行っていた。藩主に山鹿流兵学の皆伝を授けた後(22歳)、さらに兵学研究のため藩主の参観に随行し、佐久間象山らについて洋学などを学びとり、相房両国に旅行し、無断で実地研究のため東北地方へ出かけ各地を遍歴し翌年江戸に帰った。脱藩の罪で、士籍・世禄を剥奪され閉居を命じられた。このころから経験をふまえて日本の改革に情熱を注ぐようになり、水戸学派の人々の影響を受けて日本歴史にも研究の目を向けていた。同年御家人召放ちとなり通称を松次郎と改めた。翌年萩を発し諸国遊歴に出かけた。大和で森田節斎らに会い啓発を受けた。江戸に到着して後、ペリーの率いる米艦の浦賀来航を聞き(6月)ただちに赴いて事情を探った。また9月には露艦が長崎に来航したことを聞いて象山と計り海外渡航を志し、長崎に出かけたがすでに退去していたため果たさなかった。京都に出て梁川星巌や梅田雲浜らと交流をした。翌春ぺリーが浦賀に再航し、下田・箱館が開港しているが、海外情勢を知りたい一念から下田に行き、米艦に乗り組もうとしたが失敗し自首した。江戸の獄から萩の野山獄へ移されたが免獄。のち杉家へ幽閉禁錮となった。この間に僧月性や黙霖を知った。松陰は獄中で孟子を講じ(『講孟餘話』1855)、幽室において近親の子弟に『武教全書』を講じた。門人の増加のため1857年藩の許可をえて松下村塾を拡張した。高杉晋作久坂玄瑞ら門人たちの育成に当たっては、詩文を排して兵学・儒学を解いた。もっぱら個人の名利のための学問や顧問の学を否定し、修己治人の学・経世の学を解いたのである。当時中国では英仏両国に敗れ天津条約締結の屈辱をなめているが、日本では米国総領事ハリスの着任、井伊直弼大老による日米通商条約の調印などが進行していた。松陰はこれらの幕府の外交政策を不満とし、老中間部詮勝の暗殺計画を立てた。その結果、過激な論のために幽閉、再び野山獄囚の身となった。幕府の長州藩糾弾を恐れる藩の首脳部の態度の変化によるものであり、憤激した松陰は絶食するに至った(1859年)。しかし門人の離間も多くなり孤立した。江戸の伝馬町に入獄、『留魂録』を残して1859年10月27日正午以前に刑死した。江戸小塚原に葬られたが遺体は門人の手により世田谷区若林に葬られた。

〔参考文献〕山口県教育会編『吉田松陰全集』1974、岩波書店

奈良本辰也『吉田松陰』1951、岩波書店

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