●陽明学 ようめいがく
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中国明代の王守仁(号は陽明)の説いた新儒教の哲学,および陽明哲学を継承した人々の学説・思想。新儒教は歴史的には朱子を中核とした「宋学」と,「陽明学」とに大別される。朱子は理気・陰陽・動静・心性などの概念を用いて,形而上から形而下までそして宇宙論から日常的事実までの自然学と人倫の学とを有機的に結合しダイナミックな体系的理論を完成した。そしてその理論的優越性のゆえに,元・明王朝においては「朱子学」は国定化され,また科挙の試験科目に採用された。しかしその結果生じたのは「朱子学」の教条化であり,その実践倫理の形骸化であった。「朱子学」は以上のような理由から,行為に先立って認識を重視する知先行後の主知的理論が突出し,その思想としての生命の力を失いつつあった。王陽明は若年時から「朱子学」に親しんだが,その主知的傾向に納得できず道教や仏教に道を探る。だがやがて宗教的な救済から人間の内面,とりわけ父母への愛のあらわれ“孝”こそが人間の本源の心情であるとの自覚に達し,この人間の自然の真情に発する倫理の体系こそ儒教の真の立場であると考えるに至る。この考えに基づき王陽明は『大学』の〈格物致知〉に朱子と異なる解釈を与える。朱子は〈格物〉を,事物の理を窮境まで究める,〈致知〉を,吾の知識を押し広げるとの主知的解釈を行っていた。これに対して陽明は〈格物〉を,心内の事物を正す,悪心を正す,〈致知〉を,吾の良知を完璧に発露することと解した。陽明によると良知は人間の心情の真実であり,宇宙的理法の根源であり行為の規範であった。宇宙の理法や倫理はすでに人間の心の中にあるものであったから,これを〈心即理〉と称した。心を離れては宇宙事物の理も存在しない。ゆえに行為は理への知識を前提としない。むしろ知は心の真情の発露における行為を通じて形成される。〈孝〉は親への愛という真情の発露において行為されるものであるが,その行為が行われたのち初めて〈孝〉の知識は真の知となる。ことばを換えるなら,認識は経験を通して現実化されるということになる。これを〈知行合一〉と言うが,この哲学は,結局,内心の良知に従う行為を絶対的善とするものとなる。良知とはすでに宇宙の理法その他の根源であったが,さらに天地生成の原動力たる霊妙な力とされ,人間においては普遍的なるものとされる。この良知を全面的に発揮することを〈致良知〉と呼んだが,貴賤の区別なく人間に固有の良知の発揮はすべての人々の積極的精神を覚醒させ,また〈致良知〉を日常的に発現・錬成することを〈事上磨錬〉と称した。しかし,自己の心情と行動とを重視するがゆえに政治的には急進的過激性を内在していた。そして潜在していたその特性が顕在化するのはその後継者においてであった。
陽明の弟子王竜渓はその内面性から〈良知〉を仏教の“覚”,老荘の“玄”などと同じものとし,三教一致・脱儒教的方向に向かい尚古主義その他儒教規範の否定に至る。
陽明の弟子の他の一方には王心斎が出て,〈致良知〉説を社会的方向に拡張し下層民衆にまでその思想を浸透させた。その思想は復古を主としたがそれゆえに当世の政治・制度に批判的となり,その良知の発露のゆえに批判は急進的・過激なものとなった。
李卓吾は経世の才なくして高官にある人々を唾棄し,陽明の〈街中の人はみな聖人〉という思想を継承した。また仏教的求道に沈潜し,剃髪するなど士大夫(したいふ)としては奇矯な行動をとったり,あるいは商業経済の発展を背景とする欲望を肯定するなど,旧来の儒教的価値観を超克する新たな価値体系への道を示し陽明良知説の超窮極的展開を行った。しかしその思想のあまりの過激さは弾圧の嵐を呼び,李卓吾自身は獄中に自刎(じふん)して果てる。
日本に伝わった「陽明学」も,知行合一の過激な方向性をもち,学者としての中江藤樹のファナティシズム・大塩平八郎の大阪の反乱を呼ぶ。これは当然幕府によって弾圧された。また,熊沢蕃山のように現実対応的な学者の場合は,状況によって方法論を変化させる政治思想という比較的穏健な形をとるものの,その根底にはやはり変革への潮流があった。日本の陽明学の変革志向の思想は,近代では三島由紀夫の行動に顕在化していると言われている。