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●洋務運動 ようむうんどう

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 中国で19世紀後半におこった上からの近代化運動。アヘン戦争・アロー号戦争などによって,欧米列強の強大な軍事力やそれを支える優秀な科学技術を認識した清朝の開明派の官僚は,従来の西洋文明拒否の態度をすて積極的にこれを導入して,清朝の支配体制の強化を計ることを上層部に要請した。これが認められて実際に推進されたのは同治帝の時代(1862〜1874)を中心とするので,この時期を同治中興とも呼んでいる。欧米文化の優秀性に着目したが知識人としては,アヘン戦争当時にもすでに魏源林則徐らがいたが,彼らはごく例外的な少数派であった。これに対し1860年代に始まった洋務運動は,清朝の政策の一つとして実施されたもので国家的規模で推進された。この運動の中心となったのは清朝の恭親王奕訴,高官の文祥および太平天国の鎮圧において郷勇の指導者として活躍した曽国藩李鴻章左宗棠らである。

【洋務運動の展開】洋務運動の展開においてまず注目すべきは,近代的教育機関の創設である。1862年(同治1)北京に同文館・上海に広方言館が設立され,ここでは主として外国語と自然科学が教授された。一方1870年代には,アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスに留学生が派遣され,積極的に欧米の科学技術の修得に努めた。これらは長期的な展望に立った近代化政策であるが,緊急な課題としては弱体化した清朝の国力を回復することが必要であり,富国強兵を目的とする新政策が展開された。その第1は近代的軍需産業の育成であり,第2は官督商弁(政府監督下において民間に経営を委託する半官半民的な企業形態)による近代的企業の設立である。1862年曽国藩により安慶に,李鴻章により上海に近代的な兵器工場が設立されたことは洋務運動による強兵策の第一歩となった。1865年には上海に江南製造総局が設立されて,軍需工業の規模はさらに大きくなり,翌年(1866)になると左宗棠が福州に造船所を設立し,1871年には蘭州に兵器工場が設立された。官督商弁の企業は1870年代に入ってから次々と設立され,李鴻章が後援した商船会社である輪船招商局(1872)はとくに有名である。1878年には鉱山開発会社である開平鉱務局が,1880年には天津電報総局が,1882年には紡績工場である上海機器織布局が設立され,他にも同様の企業が各地で開設された。

【洋務運動の歴史的意義】洋務運動は政府主導の上からの近代化政策であり,その目的は短期間のうちに西洋近代科学技術を摂取して,欧米列強に対抗できる軍事力・経済力を育成することにあった。この運動の基本的理念は「中体西用」の標語に示されているように,“中国の伝統的精神文化をもととし,西洋の技術文化を摂取する”ことにあり,この理念にこだわったため,西洋科学技術の根底をなすところの近代的合理主義精神などはほとんど受容されなかった。中国には儒教を中心とする優れた精神文化があり,西洋の哲学・思想・宗教などの学習は第二次的なものとされたのである。このため洋務運動による中国の近代化は極めて不徹底なものとなり,政治改革も微温的な改良主義に留まってしまった。洋務運動とほぼ同じ時期に,日本では明治政府の主導のもとに文明開化を標語とする近代化運動が行われていたが,両者を比較すると文明開化運動の方が,より積極的な近代化運動であったと見ることができる。日清戦争による清の敗北は,ある意味では洋務運動の失敗を意味するものである。日清戦争後,変法派の動きが活発となるが,これは洋務運動の限界性が知識人の間に認識されたことを意味するものであろう。

〔参考文献〕牟安世『洋務運動』1956,上海人民出版社

小野川秀美『清末政治思想研究』東洋史研究叢刊,1960,同朋舎出版

波多野善大『中国近代工業史の研究』1961,京大東洋史研究会