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●幼児教育 ようじきょういく

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 長期の養育と教育が必要なヒトの特徴から,幼児教育は人類の歴史とともに古い。しかし,育児習俗に埋没していた幼児教育がその独自の領域を確立するのは,近代を待たなくてはならなかった。今日では,就学前教育の制度と同義にすらなっている。

【子供の発見と幼児教育思想の成立】長らく,親や家や共同体と一体であった幼児教育がそれとして意識されるには,子供という存在自体に人々の関心が寄せられる必要があった。明治以降のわが国の幼児教育の思想と制度はなにかと西欧につながるので,以下それに即して幼児教育の成立過程を見ることにしたい。中世以前の長大な時期には,子供は〈小さな大人〉であった。6,7歳にまで及ぶ授乳期が終わると,子供は一挙に大人になった。そして,子供は子供であるどころか人間以前の存在でしかなかった。子供期というものはまだ知られず,子供は大人と生活空間を共にし放任されていた。他方,大人として不十分な面,とくに宗教の力が強かったので信仰心の不足には厳しく当たられるなど,子供に対する無関心と苛酷な態度が同時に見られた。

 民衆から分離して市民階級が形成されるとともに,彼らは自分たちの子供を周りの猥雑な大人の生活の影響から切り離すためにプライバシーの領域である家庭に囲い込み,その独自なエートスに従って教育をするようになった。その過程で市民の自己愛は子供に投射され,子供は無垢で愛らしいという感情が発生し拡大した。ついに子供は歴史の舞台に登場したのである。子供の誕生は16,17世紀に求められる。しかし,16世紀後半のモンテーニュ(1533〜1559)は,〈子どもについては,教育は急げ〉と言い,17世紀後半のジョン=ロック(1632〜1704)は,幼児教育の重要性を説きながら,〈子どもを理性的な存在として扱え〉と勧告するなど,なおこの段階では小さな大人観は払拭されていない。

 ルソー(1712〜1778)は,1762年の『エミール』で,〈子どもをよくみて,子どもは子どもとして育てよ〉とのテーゼを高く掲げた。大人とは違う子供の独自性が発見されたのである。幼児教育は子供の自然本性を尊重しその発達を助成するものとなった。今日までつながる近代幼児教育はこのように成立した。18,19世紀には,バゼドー・ザルツマンなどの汎愛派ペスタロッチ・ヒル・エッジワースなど高名な幼児教育家が現れるが,いずれもルソーの影響を受けている。

【幼児教育施設の出現とその制度化】19世紀に入ると,フレーベル(1782〜1852)は,子供をあたかも百合の花のように考え,そのつぼみから守り開花を助ける幼児教育施設として1840年に幼稚園を開き,ルソーやペスタロッチの切り開いた道をさらに進めた。幼稚園では,子供の内的な衝動と自己活動に基づく〈遊び〉が取り入れられ,感覚を強める〈恩物〉という積み木に似た教具が考案された。幼稚園は世界的に広がり,代表的な就学前教育の形態として定着する。一方,18世紀後半以降,博愛主義的な立場から貧民の子供の救済を目的とする保育施設も設けられるようになる。フランスのオーベルランの「編み物学校」(1771)・パストレ夫人の「養護所」(1801)・ドイツの「幼児保護施設」(1802)はその先駆的な例である。悲惨な児童労働をもたらした産業革命の渦中にあったロバート=オーエン(1771〜1858)は,1816年に1歳から6歳までの子供を対象とする「性格形成学院」を自分のニュー=ラナーク工場内に開設し,遊戯やダンス・実物教授など新しい幼児教育の方法を試行し,環境論的な教育万能説に基づく幼児教育を進めた。オーエンの協力者ウィルダースピンはストンなどと「幼児学校運動」を始め,イギリスの特色ある幼児学校制度のもとを開き,後に国民教育制度の一部となった。フランスの「母親学校」のモデルは幼児学校である。20世紀には,アイザックス・スーザンによる“ナースリー=スクール”運動が発展して,幼児教育の一翼を担うことになった。

新教育運動と幼児教育】世紀転換期から1920年代にかけての新教育運動は,科学的な子供研究の勃興・深化と相まって,幼児教育にも改革をもたらした。モンテッソリ(1870〜1952)やシュタイナー(1861〜1925)の教育,あるいは,デューイ・キルパトリックの幼稚園改革運動やソヴィエト=ロシアの集団保育などが新たに生まれ,いずれも幼児教育が昏迷する現在,再評価される気運にある。

 科学的な子供研究はさまざまの成果をもたらしたが,20世紀の幼児教育理論に最大の貢献をしたのは,フロイト(1856〜1939)とピアジェ(1896〜1980)である。前者は子供の抑圧を問題にし,後者は構造・発生的な視点から,幼児心性と初期の認知的な発達の特徴を解明し,幼児教育のうえにピアジェ革命をまき起こした。その影響は今日広まりつつある。

 世界各国で幼児教育の位置が飛躍的に高まったのは第二次世界大戦後である。1960年代以降の〈教育爆発〉の時代には,1966年イギリスの「プラウデン報告」や同時期のアメリカの「ヘッド=スタート計画」が出され,その動向はいっそう加速されている。

【わが国の幼児教育】日本最初の幼稚園は,明治政府の欧化主義の産物として1876年(明治9)に設立された東京女子高等師範学校付属幼稚園である。大正期以後,都市部を中心に普及を見たが,一般民衆の就学前教育に対する要求は低く中産階級や知識層以上の子供が入るにすぎなかった。何にでも“お”をつける独特の幼稚園ことばはその反映であろう。第二次世界大戦前で就園率は5%程度であった。託児所は,1900年(明治33)に野口幽香・森島峰という二人の華族幼稚園のクリスチャン保母の開いた「二葉保育園」に始まり,家庭の保護を失った乳幼児の保育をめざす社会事業として広がっていった。最初は民間の篤志家で運営されたが,1919年(大正8)には大阪で最初の公立託児所が開設された。昭和初期の不況,戦時労働力総動員など家庭での保育が困難になるに従い,都市部でも農村部でも託児所は増加の一途をたどった。戦後は母親の職場進出の拡大に伴い保育所は幼稚園よりも数が上回った。1947年(昭和22)の学校教育法により,幼稚園は文部省管轄下の一種の学校となり,その目的は〈幼児を保育し,適当な環境を与えて,その心身の発達を助長すること〉と規定され現在に至っている。その後の普及はめざましく,1982年(昭和57)で在園率は全5歳児人口の63.8%,実数は,219万2,853人,幼稚園の総数は,1万5,190に達し,国公立と私立は2対3の比率である。託児所は1947年の児童福祉法により保育所と改称され,厚生省を主務官庁とする,0歳から就学期までの〈保育に欠ける〉乳幼児の全日保育に当たる児童福祉施設となった。現在,都道府県によって普及率にはかなりの開きがあるが,1983年(昭和58)には,5歳児で見ればその28.2%に当たる192万7,487人を保育し,施設数は2万2,860にのぼり,公立と私立は1.5対1の割合である。

 幼児教育の問題点としては,幼稚園と保育所の保育・教育内容が近づき,二元的制度が実態にそぐわなくなったということが挙げられる。長年の懸案である幼保一元化が実現されるべきであろう。父子家庭の増加,高層団地など育児環境の変化・女性の社会進出・成長加速化は幼児教育に新たな課題を投げかけている。深まりつつある初期発達についての科学的知見に基づき,子供の生涯にわたる人間としての成長の基礎になる幼児教育をつくりだす努力が望まれる。

〔参考文献〕フィリップ=アリエス,杉山光信ほか訳『子供の誕生』1980,みすず書房

藤永保・三笠乙彦編『幼児の教育』1980,講談社

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