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●洋学 ようがく

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 字義どおりに解すれば西洋学術の汎称であるが,わが国では明治以前に導入・研究された西洋の学術・知識を指す歴史用語である。広義では近世初期の“南蛮学”をも含むが,一般には鎖国期オランダ語を通じて移植された“蘭学”と,幕末期に流入した英語や仏語さらに独・露語による西洋学術のことである。しかし蘭学と洋学という用語はほとんど同義に使われており,その区別は必ずしも明確ではない。オランダが西欧諸国のなかでもとくに富強を誇った17・18世紀ころの蘭学の内容には,オランダ独自の学術が多分に含まれていたが,その後,英・仏・独の諸国がオランダを抜く強大国となり学問文化も興隆してくると,諸列強の学術書のオランダ語訳が大半を占めるようになる。そこで洋学とは主にオランダ語を通じてわが国に移植された西洋学術の総称というのが最も妥当な定義となろう。杉田玄白はその回想録『蘭学事始』で,和蘭通詞の余技としてのオランダ研究に対し,『解体新書』の翻訳以来,同志とともに始めた新学問をもって蘭学と自称し,両者を明瞭に識別している。蘭学が前野良沢・杉田玄白・中川淳庵らの藩医と幕府医官の桂川甫周らが,1771年(明和8)の3月,腑分け(解剖)の実見を動機に,クルムスの解剖書の翻訳を出発点として創始したことはあまりにも著名であるが,大槻玄沢以下,宇田川玄随・同玄真等のよき後継者を得て,医学の分野で基礎医学から内科・外科・薬学へと分化発展していった。やがて物理・化学などの新科学も導入された。

 江戸蘭学の刺激を受けて長崎の通詞らの蘭語学も格段に進歩し,吉雄耕牛は多くの蘭語学生を養成し,外科の一派を興した。また本木良永の地動説の紹介に続いて,志筑忠雄は蘭語文法とともに天文暦学上にも大きな足跡を残した。もともと経済・文化の先進地であった京坂でも,小石元俊・稲村三伯橋本宗吉らにより各種蘭学の基盤が築かれていった。そのほか野村立栄や吉雄常三(耕牛の孫)らの活躍した名古屋や,鹿児島の島津重豪・福知山の朽木昌綱・福岡の黒田斉清・中津の奥平昌高など,いわゆる蘭癖大名の出た地方城下町にも早期に蘭学が発祥した。

 蘭学には,藩医らによる創始当時から在野性が強かったが,江戸の司馬江漢・大坂の山片蟠桃など市井の知識人の間にも蘭学啓蒙の役割を担うものが現れた。

 ところで当初,玄白の天真楼や玄沢の芝蘭堂等の私塾で学ばれていた蘭学は,寛政から天保にかけて対外関係が緊迫し海防問題が国論となってくると,幕府も重い腰をもたげて蕃書和解御用(蘭書訳局)から蕃書調所等の施設をおき,蘭語の学習・殖産奨励とともに,軍備の充実をはかるための軍事科学技術の導入・増強を図ることとなった。諸藩もこれに追随し,やがては佐賀・薩摩のように幕府を凌ぐ雄藩も出現した。この段階になると,蘭学の担い手も医学のほか武士の進出が際立ってくる。こうして蘭学は“私学”から“公学”へと大きく転回すると同時に外交上,英・仏・独・露へと対象も拡大し,さらに従来の自然科学中心から,世界地理・西洋史・政治・経済等の人文科学の分野に及び,まさに洋学と呼ぶにふさわしい西洋科学技術全般の輸入時代に突入するのである。わが国近代化の最有力要因として,洋学史は極めて重要な課題なので,明治以来,各個別学術史の研究はもちろん,洋学の歴史的性格や思想性の究明も進展しているが,なかでも洋学を幕藩封建体制の補強者であり伝統的な儒学に奉仕する採長補短の学であるとする見解と,洋学に封建社会・封建イデオロギーの批判者・克服者としての地位を与えようとする見解が対立し今日に至っている。その解決の道は近世史の一層の前進とともに洋学史全体の精密な究明以外にないことをつけ加えよう。〔参考文献〕板沢武雄『日蘭文化交渉史の研究』1959,吉川弘文館

沼田次郎『洋学伝来の歴史』1960,至文堂

佐藤昌介『洋学史の研究』1980,中央公論社