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●ユーロコミュニズム

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 発達した資本主義諸国の共産党における有力な政治路線。ジャーナリズムの造語。直訳はヨーロッパ共産主義,あるいは西欧共産主義であるが,単に地理的なものではなく,社会主義・共産主義の思想と運動における新しい潮流。

【背景】1919年コミンテルン(共産主義インターナショナル)の結成以来,国際共産主義運動は,レーニン(1924年死亡)・スターリンとソ連共産党の指導と権威のもとに置かれた。しかも中央集権主義のもと,各国共産党は直接指導を受けた。このためソ連型の社会主義革命の方式が,世界各国共産党の路線を深く規定し,武力革命や一党支配・社会主義の祖国=ソ連中心主義などの傾向が広がった。1947年にコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が設立された。これはヨーロッパ諸国の共産党間における経験交流・活動調整のための組織にすぎなかった。しかしコミンテルン時代における国際共産主義の体質は根強く続いた。ところがスターリンの死(1953)から3年後のソ連共産党第20回大会において,フルシチョフによる「スターリン批判」が行われ,それまで一枚岩的であった国際共産主義運動の分極化が始まった。この分極化は,各国共産党が,自ら主体的に判断し自国の情勢に適合的な独自路線を歩み始めることに表れた。

【ユーロコミュニズムへの道】独自路線の探究は,イタリア共産党が先鞭をつけた。1956年の第8回党大会で「社会主義へのイタリアの道」と言われる新路線を打ち出した。続いて日本共産党も,長い間のソ連・中国の共産党による指導・介入を清算する方向に進んだ。1961年の第8回党大会および1960年代におけるソ連・中国の共産党による干渉に対する激しい批判を通じて,「自主独立路線」を打ち固めた。さらにこうした動向に拍車をかけたのは,1968年8月のソ連によるチェコスロヴァキア侵略であった。この事件をきっかけとして,すでに独自路線を歩み始めていたスペイン共産党,続いてフランス共産党がソ連の行為を批判し,いわゆる「モスクワ離れ」をした。すなわち前者は,プロレタリアート独裁や一党支配の道をとらず,民主主義的政党・諸階層との協力を宣言した。後者も1976年の第22回党大会で,プロレタリアート独裁の放棄を鮮明にした。1976年,東ドイツ・ベルリンで開かれたヨーロッパ25カ国の共産党・労働者党会議では,ユーロコミュニズムをめぐって論議され国際共産主義運動における分極化が鮮明になった。次いで1977年3月,マドリードにおいて,スペイン・イタリア・フランスの三党首会談がもたれた。ここで,南欧三党によるユーロコミュニズムの共同宣言がなされた。1977年4月には,スペイン共産党書記長カリリョによる『「ユーロコミュニズム」と国家』が出版され,ソ連・スペイン両党間でこの書物をめぐって論争が行われた。

【思想の内容】ユーロコミュニズムを唱える各国共産党の間には相互に見解の相違があるが,概括的に共通する見地は以下のようである。[1]国際共産主義運動において,どんな指導センターも指導党も認めない。各国共産党は,対等・平等であり,相互不干渉の見地に立つ。[2]きたるべき社会主義のもとでは,自由と民主主義は尊重され,複数政党制と議会制民主主義は堅持される。さらに普通選挙制のもとで,選挙の結果にもとづく政権交代を認める。[3]プロレタリアート独裁の用語を廃棄し,労働者権力,あるいは労働者階級の政治支配という用語をもって代える。これは独裁という言葉がもつ暗いイメージをなくすことを考慮している。[4]革命方式は,武力革命をとらず,選挙などの平和的方法を最大限に追求する。その際に共産党や労働者階級だけでなく,民主的諸党派や中間諸階層を含む連合戦線を結成し,民主的連合政府の樹立を通じて,社会主義への道に進むとされている。

〔参考文献〕S. カリリョ,高橋勝之他訳『「ユーロコミュニズム」と国家』1979,合同出版

安原和雄『ユーロコミュニズム』1978,教育社