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●遊牧 ゆうぼく

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 乾燥地帯において,集合本能をもつ有蹄類の飼養を主要な経済手段とする生活様式をさしていう。この生活様式をもつ諸民族は,農耕を主要な生活手段とする諸民族と,太古以来きわめて密接な関係をもち,世界史の上で大きな役割を果たした。

 新石器時代における有蹄野生動物の家畜化については,従来,以下のような前提要因が考えられている。第1の要因は,洪積世の末期から沖積世の初期にかけておこった気候の激変である。すなわち,B. D. ブルックの説によれば,後氷期になって雨を伴った大西洋気流が,その進路を変えたために,北アフリカや西アジアに急激な乾燥化がおこり,それまでアフリカの西海岸からイラン高原まで連続していた緑地が,ところどころにオアシスを伴う砂漠に姿を変えていった。第2の要因は,西アジアにたまたま小麦や大麦の祖先が野生しており,また,野生の羊・ヤギ・牛・豚などが生息していたことである。ところが,これらに対し,ブレイウッドは,後氷期に気候の激変はなかった,洪積世末から西アジアの気候・動物界は,現代と変わらなかったと主張し,その前提に立って,人類の食料獲得手段が漸時進歩し,潜在的に飼養可能な動物,栽培可能な植物の原産地たる西アジアの周縁丘陵地帯において,農耕と牧畜という生産手段を生むことになった,と述べている。これらを検討するに,いうところの気候が急変したかどうか,つまり,人類生活の変化の遅速に直接かかわる問題は別として,西アジアの農耕・牧畜が,人々の食料獲得手段として,漸進的に生まれたという点については,ほぼ一致している。むしろ,われわれがこの点に関して問題にしなければならないのは,有蹄動物の家畜化過程とか,西アジアにはじめて家畜化が発生し,それが世界の各地に伝播普及していったのか,それとも,類似の条件下にある諸地域に,同じような現象が多元的に発生したのか,などの点であろう。

 歴史的にみて,遊牧の起源については,農耕起源説狩猟起源説とがある。前者は,オリエント世界一帯に広く信仰されていた,地母神と関連づけて説かれる。すなわち,この神に供する犠牲獣としての牛の馴養が,動物家畜化の始まりであり,やがてこの牛が神の乗物として車を引くようになり,ついで車の代わりに犁がくっつき,オリエント地方における犁耕作が始まったとする。そして,牛の家畜化を見習い,ほかの動物,たとえば羊・馬・ラクダというような動物の家畜化がすすみ,それぞれの家畜化が完成してから,こんどは家畜専門の人たちが,農耕社会の外へ出るようになり,自分たちに都合のよい遊牧社会を形成するにいたったと説明する。いわば,農耕社会から遊牧民がはじき出された,という考えである。この説は今世紀の初めに提出されたが,現在もなお最も有力視されている。

 では,分離の動因は何だったのだろうか。家畜が増加し飼料が不足したという点も考えられるが,これとともに考慮にいれなければならないのは,住民のあいだに農主牧副型のものと,牧主農副型のものとが自然裡に形成されて,両者間における蓄財の難易差がしだいに顕在化してき,分離化現象を促したのではないか,という点である。このことは,中国の殷時代ごろ,中原において農耕併存の生活をしていた原住民の実態,すなわち,いわゆる中夏民族と羌族との関係によっても,うかがい知ることができるであろう(伊瀬仙太郎「羌族の定住化について」『アジア東西交渉史の基礎的研究』所収,1982)

 狩猟起源説は,シベリアのトナカイ狩猟民がトナカイを飼養するようになったのが,遊牧の始まりであるとする。これに対しては,動物の群棲性に注目し,中央アジアのステップにおいて,おそらくは北方森林地帯から進出してきた狩猟民によって,ステップの大型有蹄類の群がつかまえられた,というような過程を通して遊牧がすすんだのではないか,という説もある。同じ狩猟起源説にしても,トナカイの特殊性とか,羊・馬など遊牧社会における対象動物の現況などから推し,後者のほうがより説得的であるように思われる。 だが,農耕・狩猟いずれの起源説をとるにせよ,それをもって,地域性や有蹄動物の種類を異にするすべての遊牧社会を,一元的に説明することは無理ではなかろうか。そのことは,世界の遊牧民に以下の4類型があることによっても想像されるであろう。[1]ツンドラのトナカイ遊牧民,[2]中央アジアのステップにおける馬あるいは羊を主とする遊牧民,[3]砂漠とオアシス地帯におけるラクダやヤギを主とする遊牧民,[4]アフリカなどサバンナにおける牛の遊牧民。むしろ,それよりは,食用植物の原生地が多元であるように,動物の家畜化→遊牧の始源も,多元的にとらえたほうがより自然ではあるまいか。そしておそらくは,洪積世になり人口の増加に伴って,狩猟採集の対象である野生の動物や植物がしだいに減少してきたところから,生きのびるための手段として,それぞれの環境に応じ,ある地域では農耕主向,ある地域では家畜化→遊牧主向というふうに,独自の生活パターンが形成されたのであろう。

【遊牧生活の発展】動物の家畜化→遊牧の発生は,農耕のそれとともに,人類生活の一大革命であるが,これを可能にし,かつ推進する上に重要な契機となったのは,乳しぼりと家畜群をコントロールする技術,すなわち,去勢による騎馬の開発である。人類の食糧資源は,動物の家畜化によって,旧石器時代に比べ著しく豊富になったにしても,家畜だけをどんどん食っていたのでは,供給が追いつかなくなってこよう。したがって,むやみやたらに家畜を殺すわけにはいかない。その代わり,家畜の乳をしぼり,これを直接に飲んだり,あるいは,これを加工してバターやチーズをつくり保存しておけば,ほぼコンスタントに食料の補給が可能になる。このため,新石器時代の人類は,長年にわたる試行錯誤を重ねながら,このような技術をだんだんと身につけ,生活の安定化をはかったにちがいない。いうまでもなく,乳は完全栄養でこれ以上の食品はなく,現在の遊牧民についてみても,乳は主要な食料とされ,羊など家畜の肉を食料に供するのはごくまれである。なお,乳をしぼる技術は,つかまえられた動物の子に対し,その母親が本能的に授乳にやってきたところを捕え,搾乳したのに始まると解釈されている。次に騎馬についてはどうか。思うに遊牧は,長いあいだ,一家族数人からなる数家族を一単位として,羊ならば,多くても1,000頭程度の群を率いる小集団ごとに行われたであろう。というのは,地域によって多少の差はあるが,一家族が生活するにあたり,羊の場合,少なくとも200頭ぐらいは必要だからである。生活の安定向上をはかるには多いのにこしたことはないが,多すぎても管理に困るのである。羊の大群(その他の家畜の場合も同様)を1箇所に集めると,たちまちに草を食いつくすので,どうしても何箇所かに分けて管理しなければならないからである。しかし,実際問題として,新石器時代から金属器時代へとすすみ,氏族間・部族間の勢力較差がすすむにつれて,所有する家畜に差が生じ,多数の家畜を保有した場合には,不可避的に管理面で工夫しなければならなくなる。従来のままの徒歩ではとうてい管理できないし,かといって人を雇うとなると,人件費のため採算がとれなくなる。人が馬の背に乗り,馬の特性を活かしながら,家畜の大群をコントロールする騎馬の風が開発されたのは,いわば,このような要請に応えるためにほかならない。もともと,馬は食肉用として飼養され,のち車を引くために使役されたが,乗り物として利用することは不可能であると考えられていた。それが

いまや,遊牧経済の発展とともに利用価値を一段と増大し,しかも,金属製武器具類の発展に伴い,遊牧民族の活躍にきわめて大きな役割を果たすようになってくるのである。この騎馬は,古代オリエントで開発されたらしく,メソポタミア・シリア・パレスチナなどで,前1500年ごろに属する青銅製の小さな騎馬像が発見されている。

 なお,騎馬には初め,ほとんど馬具類はなかったが,そのうちクラ・クツワ・アブミ・蹄鉄などが次々に発明された。とりわけ重要なのは蹄鉄である。もともと,馬は長く走らせると蹄が割れて利用度が減退する。このためどうしても蹄を保護してやらなければならない。そこで初めは,皮や木を脚にはかせたが,それらはすぐに役立たなくなり,ひんぱんに取り替えてやらなければならない。この点,蹄鉄が発明されてからはその心配はなくなり,騎馬の効用は飛躍的に増大した。

 ところで,馬を乗り物として利用するためには,野生馬を家畜化することが先決である。元来,馬は大型の群棲獣である上に性格が荒々しく,しかも,発情期になると,オス同士がメスを奪い合って群を保つことができなくなる。したがって,これを断つためには,妨げとなるオスを屠殺するよりほか方法がない。しかしそれでは,狩猟採集時代と同様に,人々は一時的に肉を飽食できたとしても,それがなくなれば食料不足に苦しまなければならない。そこで発明されたのが去勢の技術である。すなわち,オスが4歳になると,オスのうち最も優れたもの1頭を種オスとして残し,ほかはすべて去勢してしまうのである。こうすると,発情期になってもメスの争奪はなくなり,子が生まれたらこれと同じ操作を繰り返せばよい。そして,必要に応じ何頭かを屠殺するようにすれば,食料の供給をコントロールすることも可能になるであろう。現在,モンゴリアにおける馬の群は,だいたい1頭の種オスを中心に,10数頭のメスとほぼ同数の子馬,それに何頭かの去勢馬からなっている。1家族で管理できる馬の頭数・内容などから推し,これが飼養可能な限度で,歴史的にみてもほとんど変わらないのではあるまいか。

 去勢馬の技術がどこでいつ開発されたかについては明らかでないが,前6世紀から前3世紀ごろにかけ,最初の本格的な騎馬遊牧民族として活躍したスキタイ人に関し,すべての乗用馬が去勢されていたという記録がある。さらにその流れをくむアルタイ地方の騎馬民族においても,発掘された馬の遺骸の調査によれば,乗用の良馬はすべて去勢されていたと報告されている。モンゴリアを舞台として活躍した匈奴やウイグル,モンゴルなどの遊牧民族については,徴するに足る的確な史料は見当たらないが,モンゴルにおける現在の実際例から推し,スキタイ同様であったとみてまず誤りないであろう。ただし,この去勢馬に騎乗する風は,内陸アジアの遊牧民だけに限られるらしく,アラビアのベドウィンは,メス馬以外にはけっして乗らないといわれている。ちなみに,モンゴル人はメス馬に乗らない理由を,メスは戦闘のとき出血に弱いからだといっているが,しかしこれはのちに加えられた解釈であり,真の理由は,搾乳の対象としてメスを重用したこと,および,去勢したとはいえ,オスのほうがメスより強壮であるとともに,より行動的だったからではなかろうか。

【遊牧社会の強盛化】遊牧民は家畜によって生活のすべてをまかなわなければならない。この点,主として食用植物に依存する農耕地帯の住民とは本質的に異なる。家畜に依拠し,家畜の飼料となる草を必要とするからには,一地に定住することは許されず,草地を求め家畜の大群を追いながら移動していかなければならない。乾燥地帯の牧草はけっして豊饒とはいえず,かつ,羊のごときは草の根本まで徹底的に食いつくす習癖があり,短期間のうちにかなり広範囲の草地が禿げ地になってしまうからである。といっても,この移動は,けっして放浪生活や流転生活の類ではなく,長期にわたる遊牧民族相互の勢力分布を反映して,だいたいの縄張りに従って行われた。いわば,年間を通じこの縄張りを周遊しながら,家畜群を飼養するわけである。

 ところで,この移動にはそれにふさわしい住居が必要である。このため,スキタイや匈奴は,毛皮やフェルトでつくったテント,ないしはその種の軽屋に車をつけた住車を用いた。現在では,今風の簡単なテントと包(パオ)の2タイプが知られている。前者はおもに西アジア・アラビア地方で使用され,モンゴル人は一般に包を使用している。包はオアシスに生えるタマリスクなどの枝で骨組をつくり,天井と周囲をフェルトでおおった,直径6m ほどの円形住居である。2,3時間もあれば,十分に組み立てることができ,移動のときにはこれを分解して車載すればよい。衣のほうは,毛皮ないし毛織物でつくった衣服を着用するので,完全に自給自足できる。遊牧民の衣食住は,このようにほとんどすべて家畜に依存し,その経済生活は,農耕社会に比べると,きわめて素朴かつ生産性の低いものであったといわなければならない。だが,発展の可能性がなかったわけではない。農耕民に接して遊牧していたものについてはもちろん,そうでないものといえども,直接あるいは間接に農耕民と接触を保ち,相互の交流をはかることができたろうからである。生産や生活のパターンが異なっていただけに,あるいは,意図的に有無相通じるようになったのかもしれない。そのことは,最近におけるアフガニスタンの調査によってもうかがうことができるであろう。すなわち,アフガニスタンの遊牧民は,ヒンドゥークシ山脈の南北に移動して遊牧するとき,関係する土地の役人に羊何頭かの税を納め,また,通過する農耕地の村人たちに,小羊やパキスタンで購入した雑貨を売り,村人は小羊を大切に育て,太らせてこれを食料に供している。つまり,遊牧民と農耕民のあいだに,ごく自然な相互依存関係が成立していることが知られるのである。しかも,この風はけっして最近に始まったことではなく,また,この地域特有のものでもなく,農牧接壌地帯に共通してうかがわれる,共通的現象であろうと思われる。この一事によっても察せられるごとく,遊牧民は本来の移動生活を繰り返しているあいだに,農耕民を対象として有無相通じる交易手段を自然裡に身につけ,また,農耕民もこれを歓迎するようになったであろう。生産性が低く,気候に支配され,不安定な生活を余儀なくされている遊牧民が,直接または間接的に交易に関与し,経済的に活路を見出すようになったのは,要するに,このような相互依存関係にもとづくといってよい。われわれはその早い例をスキタイにおいて見出すであろう。

 前6〜前3世紀のころ,黒海北岸に遊牧していたスキタイは,騎馬による彼らの機動性を発揮し,はるかシベリア地方に生息するテンの皮を入手して,これをギリシアの都市住民に売っていたことが知られている。おそらく,これと類似の現象は,規模の大小はともあれ,遊牧社会が形成された当初から世界の各地においてみられたであろう。

 ところで,交易がしだいに活発化し,その内容が量的・質的にだんだん向上してくると,こんどはこれへの対応が問題になってくる。といっても,遊牧民の財産形成は家畜をおいてほかに手段はない。家畜のなかでもとくに重視されるようになったのは馬である。南方の農耕社会が政治的に統一化の方向へむかい,軍事力を確保するため多数の馬を需要し,遊牧民の馬匹によってこれを満たそうとする動きが,しだいに顕著になってきたからである。一方,遊牧民はこの要望に沿うことによって,農耕社会の生産物を入手することができ,生活を豊かにする途が開けてくる。いわば,両者に望ましいテイク=アンド=ギブの関係が成立するわけである。とはいうものの,交易はそう簡単にはいかない。先にも一言したごとく,遊牧単位の数家族で管理できる馬の頭数にはおのずから限度がある。馬群となると,羊以上に人手がかかり,狼や暴風・降雪に対してはもちろん,日夜を通じて見張りをしていなければ,駿足にまかせてどこに逸走するかわからない。したがって,年間を通じ昼夜交替で,何人かがたえず順番で看視する必要がある。この人数を一体どのようにして確保するか,さらに,交易用の馬すなわち去勢馬を,馬群のなかからどの程度選び出すことができるか,これらが当面の問題になってくる。いまかりに,数家族合同で管理し,各戸から輪番で看視の若者を出すとしても,管理可能な規模はせいぜい150頭である。ところが,乗用向けの去勢馬はそのなかのわずか3分の1で,残りは,繁殖のためどうしても残しておかなければならない種オスと,メスおよび子馬ということになる。再生産を可能にし若駒を確保するためには,この100頭に手をつけるわけにはいかない。結局,50頭が交易の対象になるが,といって全部を商品化することはできない。このうちの何頭かを自分たちの乗用馬として保留しておかなければならないからである。しかも,乗用馬は休養のためときどき群中に帰してやる必要があるので,男子1人につき最小限度2頭ぐらいは割り当てておかなければならない。とすると,実際に交易できる馬は,僅々30〜40頭ということになるであろう。したがって,取引量が多くなってくると,容易に供給することができず,当然,自分たちの望む商品の入手もできなくなる。

 そこで,だんだんと顕在化してきたのが,掠奪による馬の入手方法である。もともと,遊牧民は不文の伝統的ルールにしたがって平和裡に生活していたのであるが,農耕社会との交易がすすむにつれて,経済的摩擦をはらむ土壌がしだいに形成され,氏族や部族の対立が顕在化しはじめた。とくに馬が多量に取引きされるようになってから,新鋭武器の入手・開発も手伝って,集団のリーダーを中心とする対立抗争が激しくなり,だんだんと弱肉強食の相を呈してきた。そして,強者は弱者の家畜,とりわけ馬を掠奪して自集団の財を増やし,さらに,捕虜を奴隷として増大化した家畜の管理にあたらせ,着々と勢力の拡大化をはかった。こうしてしだいに遊牧社会の組織化・統一化がすすみ,単于(ぜんう)あるいは可汗(かかん)と称せられる支配者を中心に,部族連合の遊牧国が生まれた。モンゴリアにおける冒頓(ぼくとつ)単于期の匈奴のごときは,まさにその典型であるといってよい。

 この結果,これまで局地的かつ小規模であった交易は,国対国の規模にまで拡大し,馬の交易量も著しく上昇した。一方,この見返りとして漆器・絹織物などの贅沢品が大量に匈奴へ流入した。そして,匈奴はそのうちの一部を貴族用に残したほかはすべて,直接,またはイラン人など遠距離貿易に従事する商人の手を通して各地に転売し,利潤をあげて致富をはかるようになった。そして,もし南北の流通状況が不如意に陥ると,彼らはときとして漢地に侵入し,秦・漢とのあいだに激しい戦闘が展開された。この結果,中国側から絹織物など多量の贅沢品が贈与されるようになると,彼らはそれを交易の資にあて,アジアの各地に転売して自己の必要品を購入した。この意味で,物博な漢民族国家との交戦は,匈奴にとっては交易の一手段ともなったのである。一方,秦・漢の立場からすれば,匈奴の野蛮きわまる侵入・掠奪行為ということになる。そして,儒学者はもちろん歴史家までが,異口同音に彼らの非を難詰し,鳥獣にも劣る彼ら野蛮人を撃攘し敗滅させることが,世界に卓越する中国文化を擁護するとともに,優秀な中華民族の生きのびる途である,というふうにしきりに書き立てた。このためともすれば,交戦の非がすべて匈奴にあったかのように解されがちになるが,真相は必ずしもそうとはいえない。ここではふれることはできないが,交戦にいたるまでには種々の要因があり,個々の事例につき詳細に究明しなければ,一概にはいえないのである。先に“状況が不如意に陥ると”と述べたのは,このためにほかならない。

 ところで,この原因の一つに,交易の際,彼ら遊牧民が素朴・無知である上に計数にうといところから,商販の駆引きに巧みな中国商人の好詐に乗ぜられ,不利な交易に甘んじねばならないのみか,商利や債務などのため,唯一の財産を手放し,はては奴隷に転落する場合もある,ということである。そのはしりはすでに秦漢時代においてもうかがうことができる(伊瀬仙太郎「漢匈奴交渉史の一考察――特に和親条約を中心として」『東西文化交流史』1975,雄山閣所収)そしてこの傾向は,遊牧民の生活がしだいに向上し,中国産品に対する欲求度が高まるにつれて,いよいよ顕著になってきたことがうかがわれる。その詳細については述べる余裕はないが,ただ一つ,外蒙古人民共和国の独立と深いかかわりのある清末の豪商大盛魁(だいせいかい)の例をあげて,参考に供しよう。彼は帰化城に本店を,コブドとウリヤスタイに支店を設け,外蒙古全域を商圏としていた。資本金2,000万両であったが,毎年,蒙古から羊8〜10万頭を帰綏に運ばせ,はなはだしいときには馬7万,羊50万を取り立てたといわれる。この間,元本は手つかずに残されていたのであり,外蒙古遊牧民のこれら漢商(外館)に対する負債は,清朝滅亡の年には1戸平均500両に達していた。しかも利子は年利50割以上におよぶ法外なものであったといわれている。以上は,主として匈奴をはじめモンゴリアを活躍舞台とする遊牧民族と,漢民族との交易関係について述べたのであるが,これと大同小異の傾向は,他の地域においてもうかがわれるであろう。

〔参考文献〕後藤冨男『内陸アジア遊牧社会の研究』1968,吉川弘文館

岩村忍『モンゴル社会経済史の研究』1968,京都大学人文科学研究所

内田吟風『北アジア史研究―匈奴篇―』1975,同朋舎

梅棹忠夫『狩猟と遊牧の世界』1976,講談社