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●遊女 ゆうじょ

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 宴席に出て歌舞をして人を楽しませたり,営利のために枕席に仕える職業の女の称。あそびめ・遊君・女郎ともいう。

【遊女の起源】巫女起源説と外来起源説がある。巫女起源説は民俗学の創始者柳田国男によって提唱された。神の妻とされた巫子が祭の夜に一夜妻・一夜宮女などとして性的解放を行ったことに始まるとする。中山太郎はこれに加えて巫女は宗教的売笑婦を兼ねたとして「巫娼」と称した。これに対し外来起源説は喜田貞吉,滝川政次郎らによって唱えられ,中国に発達した民妓の制度が応神・仁徳朝以来渡来した三韓の帰化人と朝鮮の漂泊民族「白丁(はくちょん)」が交わって日本に渡来したとする。

遊行女婦(うかれめ)】奈良時代の遊行女婦は,『万葉集』に児島・土師などの名で,宴に侍って主人を祝した歌や送別の歌を詠んでいる。また大伴家持が「史生尾張小咋(おぐい)を教へ喩(さと)す歌」のなかで,下級官人である小咋とのあいだで左夫流児(さぶるこ)が恋愛関係をもっていることが詠まれており,『万葉集』にみえる〈里人の見る目恥し左夫流児に惑はす君が宮出後風(しりぶり)〉の左夫流児と同様遊行女婦といわれる。しかし奈良時代の遊行女婦がすべて秀歌(すか)を詠むほどの教養を有し,貴族の宴席に招かれたほど社会的地位が高いというわけではなく,『駿河国風土記』のなかに〈手児(てこ)の呼坂(よびさか)〉として,峠にいる遊行女婦が宿を貸し,旅人を慰めたとみえる。これは平安時代の下級遊女である夜発(やほち)が旅客が足を止める坂の下に屯(たむろ)して被(かつぎ)で顔を隠して小声で呼びかけることと類似する。

傀儡子(くぐつ)女と白拍子(しらびょうし)】水辺に定着して生業をたてる遊女に対し,大江匡房の『傀儡子記』によると傀儡子族は諸国を流れ歩き,男子は操人形や奇術をみせ,女子は売春をして生活した。しかし時代が下るとしだいに漂泊することをやめ,都市や町に定着するようになる。ちょうど同じころ,平安末期から江口・神崎は衰退して行き,南北朝期にはほぼ完全に姿を消した。これは京都に遊女屋街が出現することが原因の一つであるが,ほかに院政時代からもてはやされた白拍子の存在も大きい。白拍子の起源は神楽のなかで舞を伴う芸能を男巫が演じていたのに代わって女性が男装して舞うようになった。有名な白拍子に静御前や祇王がいる。

【遊女職】遊女職は平安時代から発達しだし,鎌倉時代には荘園の発達とともに寺社権門に働きかけ,遊女稼行の専売権を獲得した。職業権を認められた遊女・白拍子は長者と呼ばれる総統者のもとで徒弟制度にもとづく遊女社会を形成した。また遊女職の権利をめぐって訴訟がおきるようになり,幕府は遊女別当を設置し,幕府による最初の管理体制を施行した。これは室町時代になると傾城局と改称された。

【近世の遊女】近世に入り遊女屋が幕府によって集団経営をするよう強制され,三都,城下町に遊廓が形成される。幕府によって公認された遊女と非公認の私娼がおり,黙認された飯盛女が宿場,港町にいた。遊女には階層があり,時代が下るにつれ階層が分化する。その名称は江戸吉原では太夫・格子・さん茶・座敷持・部屋持・局などがあり,おのおのの格に応じた合印(あいじるし)をもち,揚代金の区別があった。しかし合印をもたない切見世女郎などの下層遊女が3,000〜4,000人の遊女の半数を占めることが,吉原遊びの案内書『吉原細見』で判明する。