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●遊廓・遊郭 ゆうかく

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 周囲をかこった特定の地域内で,多くの遊女屋が遊女を抱えて集団で営業する場所・一定の地域をいう。別称としてくるわ,さと,いろざと,いろまち,遊里,傾城町がある。

【遊廓成立以前】遊女の起源は古代にさかのぼるが,個人的な営業方法で諸国を流浪して歩き,貴族の宴遊に招かれる姿が『万葉集』などにみられる。それが11世紀後半に書かれた大江匡房の『遊女記』『傀儡子記(くぐつき)』によると,遊女は交通の発達に伴う都市の勃興によって,諸国の宿駅・港津に集団で住むようになった。この代表として江口,神崎,蟹島があり,当地には群をなす遊行女婦が舟をこぎ出し,旅行く男性をさそう様子が『遊女記』に描かれている。さらに12世紀の初期には白拍子がもてはやされ,同時に京都には遊女屋街が出現した。

 1192年(建久3),鎌倉幕府が開かれると,翌年には幕法により遊君別当が設けられた。これは政府の手による初めての制度である。このころまでに遊女職が確立され,遊女稼業の専売権を白拍子や遊女が獲得していた。遊女職は「職人歌合」に記述されている職業権である。つまり徒弟制度のもとに師匠格の遊女から徒弟の遊女へ,遊女としての技(歌舞音曲など)を伝授すること,さらには師匠の許可がない限り一人前の遊女にはなれないという慣習を制度化した。こうした遊女職を認められた遊女,白拍子は「長者」と称される総統者のもとで遊女社会を形成し,それは一定の地域を占領する状況を生じていた。別当は遊女職の権利をめぐる訴訟問題に関する裁判所のことである。

 政権は室町幕府へと1338年(暦応1)に代り,応仁の乱がおきるころ,歩き巫女・熊野比丘尼・辻君・立君と称される階層の低い遊女が出はじめる。幕府は1528年(大永8),傾城局を設置し,遊女に鑑札を下すことを制度化した。鑑札を与えるということは幕府が許可するという姿勢を打ち出すということで,ここに官許という意識が生じた。さらに鑑札を与えたみかえりとして,年15貫文の税を課した。

【遊廓のはじまり】以上のように人々の集まる都市,とりわけ京都,堺,博多などの宿駅や港に遊里が発生し,幕府もそこから税を取る目的で官許として遊里を積極的に認める方針をとっていたが,天下統一をめざしていた豊臣秀吉は,1585年(天正13),大坂三郷の遊女町を許可した。ここに初めて遊女屋が特定の地域を定められて遊廓が成立した。さらに江戸幕府が徳川家康によって樹立されると,都市政策の一環として,大都市に散在していた遊女屋を特定の地域を設け,そこに封じ込めることによって風紀紊乱を防ぎ,治安を維持することが考えられた。したがって遊廓は近世になって生じた概念であり,それを制度化したのは秀吉,家康であるといえよう。遊廓はとくに3大都市に形成された。京都の島原,大坂の新町,江戸の吉原がそれであるが,このほか長崎の丸山町・寄合町遊廓も幕府の公許した特別な遊廓であった。

【京・島原遊廓】1589年(天正17),原三郎左衛門,林又一郎という浪人が秀吉の許可を得て,京都の万里小路(までのこうじ),冷泉押入小路のあいだに「二条柳町」を開設した。翌年には秀吉が天下を統一し,1593年(文禄2),京都所司代は柳町の遊廓屋から賦金を徴収している。しかし二条城の造営のためや風紀取締のために,1602年(慶長7)に六条に移転させられた。これが「六条三筋町」,「六条柳町」と呼ばれた遊廓で,室町と新町のあいだにある上ノ町・中ノ町・下ノ町の3町を合わせて「三筋町」と称された。さらに1641年(寛永18)に3度目の替地が申し渡され,西朱雀町の一角に移され島原遊廓となった。島原とは替地騒ぎの様子が1637年(寛永14)におきた島原の乱の混乱時に似ているためとか,廓の構成が一方口で,丹波街道のみにより京都市内から通じていることや,壁を設け堀をつくるなどしたため島原城に似ていることから付けられたといわれる。

【大坂・新町遊廓】1573〜1614年(天正・慶長)ごろから諸所に遊女屋が散在して営業していたが,1615〜43年(元和・寛永)に瓢箪(ひょうたん)町・佐渡島町・四郎兵衛町・金右衛門町・吉原町の5町に佐渡屋町・九軒町が新たに加わったため新町遊廓と呼んだ。現在の大阪市西区新町通,新町南北通にあたる地域である。廓の中央を南北に縦断する通りを瓢箪町といい,当初木村又次郎という状見浪人が庄屋年寄役に任命され,豊臣家の馬印の瓢箪を伝来し,廓中の惣支配をして又次郎町と称していた。しかし2代目又次郎が免職となり瓢箪町と改称したという。佐渡島町は上博労(かみばくろう)の佐渡島三兵衛により開かれ,吉原町は北天満の吉原から移転し,九軒町は揚屋が九軒あったことから称された。新町は夕霧太夫で有名で歌舞伎,浄瑠璃などの題材となった。

【江戸・吉原遊廓】1603年(慶長8),江戸に幕府がおかれ,江戸の町造りが始まった。1605年(慶長10),江戸城の修復のため,江戸大橋の内側にあった柳町の遊女屋が元誓願寺前に移転を命じられた。ここの遊女屋の主人が庄司甚右衛門で,のちの吉原遊廓の創始者である。甚右衛門は替地令が出されたのを契機に遊廓の設置を請願するが許可されなかった。ついで1612年(慶長17),再度遊女屋の代表となった甚右衛門は,豊臣の残党の横行する現状から治安維持のため,遊女屋を一カ所に集める方が取締り易いことなどを条件として遊廓開設願いを陳情した。この結果,1617年(元和3),2代将軍秀忠の代に日本橋葺屋(ふきや)町に隣接する葭原(現日本橋人形町2・3丁目辺)に遊廓設置の許可が下された。公娼制度の始まりである。遊廓は一般の町屋と区別されるため,周囲に堀をめぐらし出入口を大門一カ所と定めた。吉原遊廓は江戸町1・2丁目,京町1・2丁目,角町5町からなっていたが,1657年(明暦3)の替地令や大火によって浅草浅草寺裏の田圃のなかに移転し,揚屋町を加えた6町となった。移転以前を元吉原,以後を新吉原と呼ぶ。その後私娼取り締りによる新しい階層の出現で新たに伏見町・堺町ができた。

【長崎・丸山町寄合町遊廓】丸山町・寄合町は隣接しており,丸山の地には慶長年間にすでに3軒の遊女屋が営業していたため三軒屋と呼ばれていた。ここが火事で消失し,跡地に長崎市内に散在していた遊女屋が幕府の命令によって移転させられた。1639年(寛永16)のことであった(一説には1642年)。また寄合町も市中の新紙屋町,大井手町などから遊女屋が移転させられ,丸山町と同時に開設した。幕府は1639年(寛永16)に鎖国を完成させるが,オランダと中国の出入は認め,長崎は日本唯一の外港となった。したがって丸山町・寄合町遊廓は外国人を遊客とする目的で幕府によって開設させられた遊廓として他国にはみられない特色を有している。たとえば遊女は日本行・唐人行・阿蘭陀(オランダ)行の3種に区別された。さらに廓の構造として入口には二重門,周囲は堀がめぐらせてあったが,遊女は市中にある唐人屋敷や出島にある阿蘭陀屋敷へ出向いて接待したため,遊女の逃亡を防ぐための囲われた廓という機能はなかった。

【諸国の遊廓】1678年(延宝6)刊『色道大鏡』によると当時は全国には25カ所の遊廓があったことがわかる。まず京・島原を筆頭に,1604年(慶長9)に開設した伏見夷(えびす)町,つぎに伏見―柳町,大津―馬場町,駿河―府中島,江戸―三谷(吉原),敦賀―六軒町,三国―松下,奈良―鴨川・木辻,大和―小綱新屋敷,堺―北高洲町・南津守,大坂―瓢箪町,兵庫磯町,佐渡―鮎川山崎町,石見―温泉津(ゆのつ)稲荷町,播磨―室(むろ)小野町,備後―鞆有磯(ともありそ)町,広島―多々海(ただのうみ),宮島―新町,下関―稲荷町,博多―柳町,長崎―丸山町寄合町,肥前―樺島(かばしま),薩摩―山鹿野田町である。こうした遊廓は公娼であるが,このほかに私娼地が諸国で栄えた。江戸では岡場所と総称して呼び,四宿や深川・本所など,京都では祇園新地・宮川町・先斗町など,大坂では曽根崎・島の内・坂町などである。東海道の宿場町(三島・岡崎)なども有名であった。これらの遊廓は明治期に貸座敷と名を変えて存続し,廃娼運動がおこったものの1958年(昭和33),売春防止法が実施されるまで存在していた。

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