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●邑 ゆう

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 中国古代の集落の通称。「邑」の字は,城垣のもとに人が坐した形をかたどる。これは古代人が城垣で周囲を囲んだ集落に住んだことを示す。殷代の卜辞にみえる「邑」の用例としては,(1)「大邑商」とあるもの。殷の都城に限定的に使用される。(2)地方の邑は地名・方角を冠して「某邑」と称されるほか,地方の小中心をなす邑の地名を冠して,「某の幾何邑」と小邑を数える場合がある。これら小邑を内包する平面的な広がりを「鄙(ひ)」と称する。(3)邑は師と併称される場合があり,独立した軍事的単位をなしていたことが知られる。西周時代の金文にみえる「邑」の用例としては,(1)洛邑の成周城を「新邑」と称する。これは殷代の「大邑商」に準じる用法。(2)「鄙」に散在する小邑に地名を冠して「某邑」と称する場合がある。春秋時代にも集落は大小を問わず「邑」と汎称されている。うち諸侯の住む邑はとくに「国」と称される。「国」の城壁の外にひろがる空間が「鄙」であり,「鄙」のなかには多数の邑が散在する。「鄙」の邑のうち「国」の官職保持者たる卿,大夫たる貴族がとくに自己の采邑として宗廟を置く重要な邑は「都」と称される。有力な「都」はそれ自体の「鄙」を称する特定の空間をその勢力圏とし,そのなかに多数の小邑を包括していた。春秋時代において「国」と「鄙」の邑とは厳格な政治的区別がなされていた。「国」の軍隊は「国人」と称される「国」の居民によって限定的に構成され,「鄙」の邑の居民(地名を冠して「某人」と称される)に対しては原則的に「国」の軍役はおよばなかった。「国」の身分的構成は諸侯(「公」と尊称される)を頂点とし,諸侯と同姓あるいは異姓の大夫が独占的かつ世襲的に「国」の官職を担当する。大夫のうちとくに有力で戦時には軍帥としての権限をもつものは,卿と称された。卿・大夫を除く「国」の一般の成員が「国人」である。「国人」の平時の生活は必ずしも明白ではないが,彼らは独自の武装能力にもとづく独自の政治的判断をなしうる階層であり,春秋時代に頻発した卿・大夫の政争においては,「国人」の帰趨がその成否を決する例が少なからずある。「国」が「鄙」の邑を支配するには,これを采邑として「国」の卿・大夫に賜与し管理させた。卿・大夫は,「邑宰」「邑大夫」などと称される代官を任命して采邑を管理し,自己の勢力の基盤としたが,「鄙」の邑は一貫してかなりの自立性を有しており「叛」という「国」からの離脱を行った。領主である卿・大夫が,「国」内の政争に敗れて采邑に拠って「叛」を行う場合もあれば,「鄙」の邑が独自に「邑宰」などを擁して領主たる「国」の卿・大夫に対して「叛」を敢行する例もある。春秋中期以降,このような「鄙」の邑の支配に変化が生じた。辺境の秦・楚・晋などでは近隣の「国」を滅ぼし,あるいは卿・大夫の采邑を解体することで「県」という新しい集落単位が成立した。ことに晋では「六卿」と総称される大貴族が「鄙」の邑を「県」に再編して強力な支配を施し,「鄙」の邑の居民をもって私属兵団を編成し「国」と「鄙」の別を急速に稀薄化させ,戦国以降の官僚制支配の基盤を形成した。春秋時代の「県」は辺境に限定されていたが,戦国時代に入ると中央集権的な地方支配,すなわち郡県制が全般的に進展した。秦孝公に仕えて変法を行った商鞅は〈諸の小郷聚を併わせ,集めて大県と為し,県ごとに一令,四十一県〉(『史記』秦本紀)なる政策を行い,旧来の「鄙」の邑を「県」に再編した。「鄙」の邑を重層的に編成して支配するプランも当時の思想家のあいだで構想された。『国語』斉語のいわゆる「参国伍鄙」の制は「鄙」の邑を邑(30家)→卒(10邑)→郷(10卒)→県(3郷)→属(10県)と重層的に編成する。同様のプランは『管子』小匡,『周礼』地官などにもみえるが,時代がくだるにつれ,「国」「鄙」の集落構成が接近する点が確認できる。秦の始皇帝の全国統一に伴い郡県制が中国全土に普及されたのち,「邑」は県の雅称,あるいは皇太后・皇后・公主の食邑となる県の称となった。