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●ヤルタ会談 ヤルタかいだん

ヨーロッパ 英国 AD1945 ハノーヴァー・ウィンザー朝

 第二次世界大戦末期の1945年2月4日から11日までの8日間,クリミア半島のヤルタ市の南方にあるリヴァディア宮殿を会議場として開かれた3巨頭会談。

【終戦問題】アメリカ・イギリス・ソ連3大国を代表するルーズヴェルト,チャーチル,スターリンの3者が,1943年11月28日〜12月1日のテヘラン会談以来の会談を行った。対ドイツ戦争終結が予想できたこの会談では,戦後世界の再建問題が3国政府の共通の関心事で,戦時下の3国の協力関係を戦後も維持できるかが重要問題であった。ルーズヴェルトがこの会談に期待していたことは,(1)ドイツおよび中部・東部ヨーロッパの処理問題,(2)国際連合設立にソ連の協力を得ること,(3)ソ連の対日参戦問題,以上の3点である。第1点のうちポーランドの国境画定の問題は,東部国境についてはほぼ1939年のモロトフリッベントロップ協定の線で固定し,西部国境は暫定的にオーデル=ナイセの線とするとともに,新生ポーランド政権の問題については,ソ連の支持するルブリン政権とアメリカ,イギリスの支持するロンドン亡命政権のいずれを主体として再建すべきか激論の末,次のように協定した。

〈……現在ポーランドにおいてその任にある臨時政府は,ポーランド内および外国在住のポーランド人からの民主主義的指導者を参加させることによって,一段と広範な民主主義的基礎に立って改組されるべきである。そののちに,この新政府は国民統一臨時ポーランド政府の名称を帯びるべきである。……この国民統一臨時ポーランド政府は,できるだけ早期に一般秘密選挙権にもとづく自由で無制限の選挙を挙行する義務を負うべきである。〉

 第2点の国際連合の設立に関して,ソ連が白ロシアとウクライナをも国際連合設立国として総計3票の表決権を要求したのに対して,ルーズヴェルトは国際連合創設を畢生の念願にしていたので,これを認め,1945年4〜6月にサンフランシスコでこれに関する連合国会議を開催することを確認した。第3点のソ連の対日参戦に関して,ソ連は日露戦争の敗北によって帝政ロシアが失った東アジアの諸権益の復活との交換条件として,蒋介石の国民政府と友好条約を結び,ドイツの降伏後2カ月,または3カ月以内に対日宣戦布告することを約束した。ソ連の得た条件としては,外モンゴルの現状維持,サハリン(樺太)の返還,千島列島の引き渡し,大連の国際化,旅順の租借権回復,満州鉄道の中国・ソ連合弁会社による共同運営などがある。中国に関する条項については,1945年6月9日,大統領トルーマンが滞米中の宋子文行政院長兼外交部長にヤルタ協定の内容を示し,公式には同月15日に,ハーレー大使を通して蒋介石総統に通達し,同年8月14日にモスクワで調印された中ソ友好同盟条約で承認された。

【問題点】のちにこの協定の内容が明らかにされると,アメリカではルーズヴェルトの対ソ妥協に批判がむけられ,また今日の日本では,北方領土問題の禍根をヤルタ協定に求める批判的見解が支配的であるが,ヤルタ会談の時点では,アメリカの軍部は対日上陸作戦に伴う米軍の損失を深刻に憂慮しており,原爆の研究開発は最高の秘密事項である上,その完成の目途は立っておらず,さらにソ連の国際連合設立への協力と蒋介石政権支持への期待があって,ルーズヴェルトとしては対ソ友好政策の維持を最優先事項と考えていたといってよい。このように米ソ協調の上に再編成された国際秩序はヤルタ体制と呼ばれ,第二次世界大戦後のアメリカ・ソ連2極構造時代のガイドラインが設定されたが,しかし,その後まもなく同年4月12日のルーズヴェルトの急逝を契機として,ポーランド問題をめぐるアメリカとソ連の対立が顕在化し,冷戦時代に移行していくのである。

〔参考文献〕レッシング,佐瀬昌盛訳『ヤルタからポツダムへ−戦後世界の出発点−』1971,南窓社

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