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●山内豊信 やまのうちとよしげ

アジア 日本 AD1827 江戸時代

 1827〜1872(文政10〜明治5)15代土佐藩主。父は支族南邸の豊著,母は側室平石氏。幼名輝衛,号は山内容堂のほか,多い。1848年(嘉永1),宗家を継ぐ。吉田東洋を起用して仕置役とし藩権力の強化をはかる。将軍継嗣間題がおこると一橋慶喜を推したが,大老井伊直弼より隠居謹慎を命ぜらる。4年後,謹慎をとかれ,再び幕政に参加し公武合体を推進したが,土佐勤王党の結成,吉田東洋の暗殺,長州を中心とする尊攘運動の高揚など,容堂の考えと相反する情勢となった。そのため容堂は土佐勤王党の弾圧を決意し,1863年(文久3)6月,間崎滄浪らを自刃させ,同年9月武市端山らを投獄した。こうして土佐藩公武合体派が主流を占め,開成館仕法を行ったが,時代の流れは幕府の衰退を止め得ず,坂本龍馬の献策をいれた後藤象二郎の勧告によって大政奉還を建白した。徳川氏の処遇に努力し,小御所会議で岩倉具視と激論す。1868年(明治1),鳥羽伏見の戦いの勃発で容堂の意図はついえた。詩文・書をよくし,酒を好み,島津斎彬,松平慶永伊達宗城とともに幕末の四賢侯といわれた。維新後,学校知事,上局議長などを歴任す。

〔参考文献〕平尾道雄『山内容堂』1961,吉川弘文館

高知地方史研究会編『容堂公遺翰』1966,高知市民図書館