50音順    検 索

●邪馬台国 やまたいこく

アジア 日本 AD 

魏志倭人伝』や『後漢書倭伝』にみえる3世紀ごろの倭の国家。末慮国など約30国を統属。はじめ男王であったが,2世紀後半ごろ国内が乱れ相攻伐したので,卑弥呼を共立して女王とした。卑弥呼は鬼道を事とし,よく衆をまどわした,とあるから巫女(みこ)的性格をもっていた。239年,大夫(たいふ)の難升米を魏の都に遣わし,男女の生口(せいこう)10人と斑布(はんぷ)2匹2丈を献じた。魏の明帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印紫綬,難升米には率善中郎将の称号と銀印青綬を授けた。また銅鏡100枚なども与えたという。243年に再び使者を遣わし生口そのほかを献上,247年には狗奴国の男王卑弥弓呼との戦いを報告した。魏は張政らに詔と黄憧を持たせて卑弥呼のもとにおくり激励した。この戦いの最中に卑弥呼が死んだので,径100余歩の大きな塚をつくった。殉葬するもの,奴婢100余人という。卑弥呼を失った女王国は,男王をたてたが国中は服さず内乱がつづき,千余人が殺された。そこで卑弥呼の宗女である13歳の壱与を女王としたところ国中が安定した。さきに邪馬台国に来ていた張政の帰国に伴い,壱与は掖邪狗を使節として,生口30人と白珠5千孔,青大勾珠(まかたま)2枚,異文雑錦(いぶんざっきん)20匹を持たせて魏に派遣した。『魏志』倭人伝によると邪馬台国には女王の都があり,7万余戸で伊支馬(いきま)・弥馬升(みましょう)・弥馬獲支(みまかき)などの官がある。また伊都国に一大率を派遣して諸国を検察させた。租賦を収める邸閣があり,国々に市があって交易が行われた。男子には入れ墨の風俗があり,水にもぐって魚貝をとることを好む。髪を結って木綿で頭をしばり,布を横幅にして連ね,ほとんど針で縫いつけることをしない。婦人は髪を編むことなく,うしろへ垂らしそのさきを頭の上でかがめ連ねている。衣は単被で布の中央に穴をあけ,そこから頭を出して着る。父母兄弟は寝処を異にする。人が死ぬと墓に葬り,墓は棺はあっても槨はない。死者の家族は10余日のあいだ喪に服し,喪主は大声で泣く。そのほかの人々は歌い,舞い,酒を飲む。寿命は100年か8,90年である。国には大人(だいじん)と下戸(げこ)の身分がある。祭りのときなど大人が敬礼すると,下戸は立ったまま手をうってこれにならう。下戸が大人と道路で会うと,下戸はおそるおそる草むらに入ってしまう。何かことばをかけるときは,うやうやしく両手を地につける。大人は4,5婦,下戸でも2,3婦をもっている。婦人は淫せず,妬忌しない。盗みをせず,訴訟も少ない。法を犯すものがあると,軽いものはその妻子を没し,重いものはその門戸,宗族を滅す,と記されている。邪馬台国の位置については,畿内の大和説と九州説がある。大和説をとれば3世紀の前半には九州を含む政治的統一が行われたことになり,大和国家と結びつく。九州説に従えば,女王の統治圏は九州に限られるので,畿内を中心とした政治的統一が行われたにしても,九州には及ばないことになる。九州説では邪馬台国の位置を熊本県菊池郡にあった山門郷か,福岡県の山門郡にあてている。あるいは大分県の宇佐地方とする説もある。また邪馬台国と戦った狗奴国については,九州説では熊本県の球磨地方,大和説では群馬県の毛野地方か和歌山県の熊野地方とする。邪馬台国九州説をとる学者は,日程,距離の点で不利となる。邪馬台国にいたる「水行十日,陸行一月」を「水行ならば十日,陸行ならば一月」と読んでみたり,「陸行一月」は「陸行一日」の誤りとしている。距離の点では大和説が有利である。しかし方向に無理がある。『魏志』倭人伝では,「南,投馬国に至る水行二十日」,「南,邪馬台国に至る」とあり,南方に邪馬台国があったことになる。そこで大和説では,「南」を「東」と解している。また最近,『三国志』の現存最古の刊本である宋代の紹興年間に印刷された紹興本や紹煕年間の紹煕本が,ともに「邪馬壹国」と記しているので,『後漢書』などに「邪馬台国」と表記するからといって,『魏志』倭人伝の原本が,そうなっていたとは限らない,とする説がだされている。

〔参考文献〕佐伯有清『研究史邪馬台国』1971

吉川弘文館,佐伯有清『研究史戦後の邪馬台国』1972,吉川弘文館