●山鹿素行 やまがそこう
アジア 日本 AD1622 江戸時代
1622〜1685(元和8〜貞享2)陸奥国会津の生まれ。江戸に出て林羅山に入門し朱子学を学び,小幡勘兵衛景憲について甲州流軍学を学んだ。また自らは山鹿流軍学をはじめ,軍学者として有名になり,1652年(承応1)には赤穂藩主浅野長直に禄1,000石で招かれ,その間,『武教要録』『修教要録』『治教要録』を著し,幕藩体制下の武士の日常生活の倫理を模索した。1660年(延文5)に江戸に帰り,その門人の数は天下を驚かすほどであった。1665年(寛文5)に『聖教要録』を著し,官学朱子学は空虚で非現実的として,孔子の教えに帰る聖学を主張した。幕府はこれを危険思想として処罰し,翌年赤穂に配流され,配所で『武家事紀』『中朝事実』を著して,日本の風土と歴史を中国のそれと比較して,日本の優秀さを強調した。また,当時生産階級でなかった士階級を教化階級,すなわち教師に規定し,赤穂義士の思想に大きな影響を及ぼした。1675年(延宝3),許されて江戸に帰り,私塾積徳堂を開いて門人を教育し,古学派の創始者となった。