●山 やま
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【山の形成とその諸段階】地球の火山活動・断層活動・褶曲運動などによって隆起した地形。500m程度までは丘陵,それ以上を山とし,とくに1,000m以上を高山と称する。地球は中心部から外面まで内圏・岩圏・水圏・気圏の四つの層があり,岩圏と内圏の構成と変動が山をつくる原動力,水圏と気圏が山の姿をさまざまに変形させる要素ということができる。地球の中心部はコアまたは核と呼ばれ,その外側に高温のマントルと呼ばれる厚い層があって,たえず波動を生じ,岩圏・水圏に地震や津波を惹起させ,地殻を変化させ,それが各種の造山作用となって現れる。日本列島には無数の断層があるだけに断層山地は珍しからず,他方では地殻やマントルのなかにたまったマグマ(岩礁)が岩石の割目を通って地表に溶岩として噴出するところが多く,火山活動もまた盛んである。その様相は多岐にわたり(1)成層火山(コニーデ)(2)楯状火山(アスピーデ)(3)溶岩台地(ペディオニーデ)(4)鐘状火山(トロイデ)(5)溶岩尖塔(ペロニーデ)(6)砕屑丘臼状火山(ホマーテ)(7)爆発孔(マール)などがあげられるが,(1)は円錐火山で富士山はじめその姿の優美から名の知られた山が多い。実際にはこれら諸要素が複合してできる火山が多く富士山も円錐火山に寄生火山を伴っており,また火山の噴火口が陥没してカルデラを生じ,湖となることがある。カルデラのなかに新しく火山が生ずるとカルデラを囲む山は外輪山と呼ばれ複式火山をつくる。長野県の浅間山は三重式火山であり,カルデラの規模では九州の阿蘇山が直径東西17km,南北25km,鹿児島県桜島の姶良カルデラは直径東西23km,南北7kmで世界最大級のものである。こうして出現した山は長い年月のあいだに気圏・水圏のなかでそれぞれ特色ある山容へと移行する。風化作用・浸蝕作用とこれに伴う運搬作用・溶蝕作用が岩石を破壊しあるいは溶解して山頂からの流水がこれを運び去り,山は高さを減じ構造平野へすすむが,地盤の隆起によって地形が若返る場合もある。山頂からの流水が急斜面を下る際,その浸蝕によって深い溝(雨裂)を生じ,しだいに拡大して V 字状の峡谷を形成し二つの谷にはさまれた尾根・頂稜部は削られて切り立った山容へと変ずるので北アルプス槍が岳の鎌尾根などにその典型がみられる。やがて山頂部の浸蝕がさらにすすむと低くなって平坦になり河川は河床が広くなり,流れは緩やかになる。これが老年期の地形で大地と山の浸蝕輪廻の1回が終了するのである。【日本古代の山神の祭祠】わが国は国土の大半が山岳で占められ一般に高温多湿の気候風土と相まって多種多様の動植物を発生させ,おのずとここに住む人間の生活にも豊かな地方色を生み出してきたので,山は地域社会をはぐくむ象徴的存在でもあり,これを神の鎮まる聖域とみることによって共同体的生活の精神的支柱ともなった。農耕を主軸とする弥生時代の日本にはいたるところ山神をまつる聖地があったことであろうが,やがて神社として固定し国家の形成とともにこれが組織づけられてくる。10世紀の初め編集された,『延喜式』に載せられた神社のリスト中には,山神系とみるべき大山咋(おおやまぐい)神・大山津見命・天水分(あめのみくまり)神・大山祇(おおやまずみ)命・国水分神・金山彦命・櫛真智命・建水分神・大山積命などをまつる社が河内・相模・常陸・若狭・越前・加賀・信濃・伯耆・隠岐・美作・薩摩が各1社,山城・伊豆・甲斐・丹後・石見・備中・伊予・対馬各2社,越後・近江・出羽・但馬・因幡・出雲が各3社,陸奥4社,丹波5社,大和19社,計73社を数え,山神と同類の雷神・大物主神をまつる社は伊勢・越前・丹波・但馬・紀伊・淡路・阿波・讃岐・備中・美濃・下総が各1社,山城・和泉・尾張・加賀・石見・備後・周防・若狭・下野が各2社,上野・備前が各3社,遠江4社,大和8社,計47社があげられ合計すれば120社が知られる。これらはリストの総数3,132座に比べると4パーセントにも満たないが,これはすべて官社に限られ,しかも平地の大社・有名社がおもであって山間僻地に多い民間の山神の社を含まないためである。そうした民間の社は風土記を通じてうかがうことができるので山雲国楯縫郡神名樋(かんなび)山の石神は旱天に雨を祈れば験あり,丹後国比治山・豊前国鹿春郷の山・豊後国松浦郡褶振峯では山上に池沼があって竜神(蛇神)が棲み,雨を恵む神として信ぜられた。播磨国稲倉山は山の形が稲を積むのに似て豊宇賀能売命が山で飯を盛ったとの伝承があり,稲に象徴される福神の信仰がある山城国の稲荷山は古くからそのため有名であった。また各地にみられる神名備(かんなび)山の名称は神の隠れ籠る山とか神をまつる山の意とせられ,山上または山下に祭祠を伴う神聖な山であった。さらに普通にみられる何々岳(嶽)と呼ばれる山は本来そうした霊山であった名残りを止めるもので,沖縄では毎年一定の日に神の降臨する場所をダケ,オガンなどと称し神聖視していた。木曽や秩父,甲斐の御岳はとくに名高く駒ケ岳は各地にその名の山が分布し乗馬の神が降臨したとの信仰に由来をもつのであろう。わが古代に登場する有名な大和三山のうち,香久山は神話にもみえ,『古事記』,『日本書紀』によれば高天原にあって天照大神の天の岩戸隠れの際,その前に行われた神事では天香久山の牡鹿の肩の骨や日蔭の蔓(かづら)真榊が用いられており,実際にこの山で神事が行われた事情を反映している。神武天皇は大和平野鎮定にあたり天香久山の土をとり瓮(みか)をつくって丹生川上において天神地祇をまつられた。崇神朝には大和国三輪山が注目される。この山には大物主神が鎮座し,これをまつる山麓の大神(おおみわ)神社は現在も本殿なく山を神体とする。山中には奥・中・辺の三磐座という祭祀遺蹟があり,巨石を主とし,そのほかの石を寄せ集め,環状または放射状の形に配置されている。そこでは祭祀が行われたとみられる遺物として石剱頭や滑石製白玉・子持曲玉・弥生式土器などが発見されている。この山の西側中央,南北を小溪流にはさまれた扇状地上部でも磐座の遺蹟があり,臼杵・箕などの農具,種々の飲食器や案・匙・鏡・剱・玉などの呪物・竹玉などの祭器の出土をみ,農業神としての祭祀を想像させる。『日本書紀』雄略紀にはこの神が蛇神=雷神で崇れば疫病を流行させ,天皇を悩ますほどの勢威を示したことが記されている。また斉明記には空中に唐人のごとき者が出現し竜に乗り青い油笠を著し,葛城嶺より生駒山に飛び隠れた記事があって中国の神仙思想の影響があるとはいえ,河内・大和の境にある金剛・生駒山脈が神聖視されていたことを物語る。
【日本古代の噴火とその神聖観】9世紀は日本列島に火山活動が旺盛となった時期で864年(貞観6)5月25日,駿河国は富士山の爆発を朝廷に報告した。それによると火炎天に冲すること20丈,雷鳴り地震を伴い10数日たつも火は消えず,沙石を降らし,煙雲ただよい西北の麓にある本栖湖には溶岩流が押し寄せ湖を狭めた。7月17日には甲斐国より本栖・精進・西河口の諸湖に溶岩流が押し寄せ魚類死し,農家の被害その数を知らずと報告された。朝廷ではこれを占った結果,浅間社神官が祭りを怠るによって神の咎を受けたものであると判明し,幣を奉り鎮謝せしめた。しかるに噴火は年を越えてつづき甲斐国八代郡擬大領無位伴直真貞に託宣あり,社を建て祝(はふり)禰宜をおいて祭りをするよう告げた。よって郡家の南に神宮を建て真貞を祝とし伴秋吉を禰宜として祭りを行った。その後天晴れて頂上を仰ぎみると社殿が飾りつくられ四隅に垣あり高さ約1丈8尺,広さ3尺,厚さ1尺余の丹青石を四面に立て石の門もあった。相去ること1尺で中に一重の高閣あり,石造でその彩色は美麗をきわめた。よってこの社の斎祭を官幣に預らしめたいと願い出たので,朝廷はこれを許した。富士山に対する神秘観がかような山頂の奇蹟を幻想せしめたのであるが,都良香が著した『富士山記』にはこれ以前にもさまざまの奇瑞をみた記事を載せている。840年ごろ,山頂より珠玉が落下したのをみると小孔あり,仙人の用いたものだろうといわれ,また875年(貞観17)11月5日の祭りの日,昼下り天気晴朗の山頂を仰ぐに,山頂を去る1尺余のところに白衣の美女2人舞っていたという。また古老の話によると頂上には広さ1里ばかりの平地あり,中央凹みその底に神池が横たわり池中に虎の形をした石がある。凹地から絶えず純青の蒸気が立ちのぼり,底では湯が沸騰している。神池をめぐって青紺色の竹が生えしなやかである。昔,役小角(えんのおづぬ)は頂上をきわめて修行したと。その形容には外来思想の影響が考えられるが,竹は神霊の宿るところを示すのにふさわしい清浄感を与えるものであった。865年(貞観7)2月には阿蘇山の健磐竜命の神霊池が沸騰し,兵疫の兆しとて朝廷は各社に奉幣して祈謝し孤独な者の救済,租税の減免を実施した。『筑紫国風土記逸文』に阿蘇山頂の霊沼は石の垣をめぐらし,沼は縦50丈,横100丈,深さ15丈ないし20丈,清き潭(ふち)は百尋,美しい緑をたたえ浪は5色に彩られ黄金の綱がその上に張られているとある。幻想の華やかさはここにも展開されている。ついで871年5月16日,出羽国司より鳥海山の噴火が報告された。この山には大物忌神社があり,山頂は岩石そびえ草木生ぜず,四時雪を頂く。爆発は4月8日におこり雷のごときひびきを伴い,溶岩が河に流れ込んで臭気ただよい水の流れをせき止め魚の死ぬもの多数にのぼった。長さ10丈余の大蛇が2匹出現して海口に入り,無数の小蛇がこれに従った。古老の伝えに810年ころに噴火し,その後まもなくして兵乱があった。今回も占ってみると,これまで祈祷に報賽せず墓や骨で山水を汚したので神が怒って山を焼き,もし鎮謝しなければ兵役の難があろうと告げられたので早速祭りを行わしめた。その後885年(仁和1)には月山神などとともに飽海郡の海岸に石鏃を降らす怪異を現し不敬の崇りというので祭祀を督励した。939年(天慶3)にも噴火があったが,その模様は明らかでなく,ただそのため蝦夷に備えての警備を厳にしたことが知られているにすぎない。874年7月には薩摩国開聞嶽が噴火し灰を降らし震動の声100余里に及んだ。占うに穢れの崇りというので勅して封20戸を寄せ社頭の面目を改めた。838年7月5日夜からおこった伊豆半島沖の神津島の噴火は以上の山岳神秘観を一層高揚させた感がある。海中より噴火の立ちのぼる様子を十二童子が炬をとって相続き海に下って火をつけたといい,これは同島の阿波神の崇りであるとして位が授けられている。島には四つの神院がつくられ,石室2間・屋2間・閣室13基を数え,宏壮華麗で金色の磯や五色の沙に彩られた浜ができたなどと詳細な幻想的記述を残している。
【修験道の発生と山岳信仰の仏教化】畿内にあっては既述大和・河内の境にある金剛・生駒山脈,とくにその主峯である葛城山が霊山として7世紀には脚光を浴びてきた。がんらい,葛城山の名は金剛山(1,112m)戒那山(959.7m)を含む山系の総称で,のち戒那山を葛城山とも呼ぶようになった。この山には古くより呪言神である一言主神がまつられ,これに関連して山麓には葛木坐一言主(かつらぎにますひとことぬし)神社はじめ葛木御歳神社・葛木水分神社・葛木坐火雷神社などがまつられ,賀茂民一族が司祭者として勢力をもっていた。雄略天皇がこの山に狩猟をされたとき一言主神に会って挨拶をかわし,あるいは獲物を競ったとの伝説があって,この山の信仰を奉ずる政治社会が,大和朝廷と対抗した時代のあったことを示唆している。7世紀後半には賀茂氏の中から小角(おづぬ)なる優れた呪術家が現れ,岩屋で修行し葛を衣とし松を食い孔雀王経の呪法を修め非凡な験術を得て空を飛び鬼神を駆使したといわれたが,後世,修験道の開祖として密教系行者に崇拝されたところから,仙人または聖(ひじり)として理想化されたものである。奈良朝の初め小角が弟子入りした韓国連広足に讒せられ伊豆に流されたのは,広足が得意とする呪禁道(陰陽道と仏教の習合した一種の医療術)と原始的な小角の呪術信仰との確執を示唆するもので,広足の失脚後は密教徒の進出に伴い,小角の宗教は著しく密教的修飾を受け,孔雀明王経の呪法もそのための付会にすぎない。弓削道鏡も葛城山に修行し,如意輪観音法の呪法を体得したと伝えられ,南都寺院の僧侶たちは虚空蔵菩薩を本尊とする求聞(ぐもん)持法を修するため周囲の山林に入るものが多かったが,それらは経典の暗誦や思索の徹底を期するためであった。なかでも奈良の東,春日山一帯には民間の密教的呪術宗教家が庵や道場をいとなむもの多く,彼らは主として観音の呪法を持したが,地方にあってもたとえば越前では,泰澄上人が出て白山を中心に活躍した。上人は熱心な十一面観音の信仰者であったが,母は白山の神をまつる巫女であった関係から,白山に登ってこの神を十一面観音の姿で感得し,山岳信仰に神仏習合を導入するさきがけとなった。葛城山と並び畿内の名山として夙に知られたのは吉野金峯山(きんぶせん)で奈良朝以前,この幽邃の地は道教的仙境とみられ,麓の宮滝には水神である丹生川上神社が鎮座して朝廷の信仰あつく,持統天皇は31度にわたり宮滝の離宮に幸せられており,吉野比蘇寺は天武天皇が即位前入寺されたところで,金峯山に修行する僧徒の根拠地ともなり,奈良朝には唐の高僧神叡もここに住した。平安朝に入り,9世紀には真言僧聖宝が山岳修行者として聞こえ,895年(寛平7),金峯山の開発に乗り出し山上に寺を建て,6尺の金色如意輪観音や毘沙門天・金剛蔵王菩薩をまつり,その交通を便にするため吉野川に渡舟を設け渡守6人を置き堂守りを金峯山に置いた。このころより“金のみたけ”で知られてきた金とはおそらく不老長寿信仰の呪物として尊ばれた道教的概念に出で,これが山の神格に付会せられた結果,金の精霊の籠る山として観念せられたので,密教の影響が及ぶにつれ,さらに智徳の本尊で降魔的呪力を秘めた金剛蔵王菩薩が金峯山における最高の神格として仰がれ,古くから山上にまつられた子守・勝手・早駆・若宮・金山の諸明神を統御する形となった。金峯山と並び,いま一つの山岳行者の中心地は熊野であった。本宮は樹木の神霊である家津御子,新宮は川の神霊というべき速玉神,那智は滝の神霊である結神をまつり,三山全体としては山・川・滝など自然崇拝に発祥し,その背後には紀伊半島の深い山岳地帯への神秘観があった。平安朝,密教行者がここに足をのばしはじめ,三山の周辺はその修行道場とされ,さらにすすんでは熊野川を遡行し,北山・十津川地方の山岳を踏破して吉野金峯山へぬけるいわゆる順の入峯と呼ぶ行脚方式が成立し,これに対抗して吉野金峯山より熊野へ南下する逆の入峯コースもつくられ,こうして大和アルプスと称せられる紀伊半島の山岳地帯は日本有数の修験行場となった。この区域内に入る山には北から金峯山(山上ケ嶽,1,719m)・竜ケ岳(1,581m)・大普賢岳(1,780m)・七曜岳(1,530m)・行者還岳(1,546m)・弥山(仏経ケ岳,1,915)・仏生ケ岳(1,805m)・孔雀岳(1,800m)・釈迦ケ岳(1,800m)・大日岳(1,750m)・天狗山(1,537m)・地蔵岳(1,455m)・涅槃岳(1,217m)・行仙岳(1,227m)・笠捨山(1,352m)などがあり,密教・行験道にちなんだ名称を多く見い出すことができる。このなかで金峯山は金剛・胎蔵両界が一体となり,大日如来に帰一して即身成仏をなしうる聖地の中心とし,それより北の山岳を金剛界,南の山岳を胎蔵界の曼荼羅とみる解釈が成立した。
【平安仏教の山岳進出】11世紀に藤原明衡が著した『新猿楽記』には修験霊場として熊野・金峯のほか越中立山・伊豆走湯・比叡山・伯耆大山・富士山・加賀白山・高野山・箕面山・葛川などがあげられており,諸国の名山がこのころすでに密教的修験者の道場となっていたことが察せられる。なかでも比叡山・高野山はそれぞれ天台の延暦寺,真言の金剛峯寺が開かれて平安仏教の二大中心地ともなっていた。比叡山は標高約840mの大比叡岳と四明岳を最高峯とし南北に連なる山塊で,最澄は788年(延暦7)大比叡岳の東北斜面に比叡山寺をいとなんだのが,現在延暦寺東塔の根本中堂の建つ場所であった。それより北方にむかって山は漸次低くなり,ほぼ600m台の斜面がつづくが,その北端に三代座主円仁が根本観音堂を建て,これが中心となって横川地区が開発され,延暦寺は東塔・西塔・横川の三つに区分された一大総合寺院となった。3地区はまたおのおの谷に行政的に細分され,東塔は5谷,西塔は5谷,横川は6谷で,あわせて3塔16谷と称し,教学や教団の上でもこの地域区分が重要視された。9世紀中ごろには比叡山の北,比良山にも修業するものが増えたが,比良山系は一層急峻で北から主峯武奈岳(1,214m)・打見山(1,103m)・蓬莱山(1,174m)・権現山(995m)・霊仙山(750m)の諸峯が連なっている。この山系の東側は琵琶湖にのぞみ,数カ所扇状地をつくるが,西の斜面は急勾配の断層崖をなし,安曇(あど)川にのぞみ,この川の対岸は900m級の丹波高原につづく。858年(貞観1),延暦寺僧相応は武奈岳西南麓,安曇川沿いの葛川(かつらがわ)の地に修験の道場を開き,息障明王院と称した。この寺の南側には安曇川にそそぐ明王川が流れ,その上流は北良山系西側の急斜面で19の滝となり,これが修験者にとり恰好の行場とされたのである。一方真言宗の本拠高野山は,海抜901mで山頂が東西6km,南北3kmの平坦地となり,多数の寺院や民家そのほかの施設が町を形成しこの平坦地を囲んで楊柳山(1,009m)・陣が峯(1,106m)・弁天岳(985m)などの山々が八葉蓮華を形どって16の谷々をつくっている。転じて京都の周辺をみるに東北に位置する比叡山が帝都の鬼門を守るため天台の霊地として開かれたように,西北の乾の方角も陰陽道で神門と称し畏れられたので,そこには愛宕山(921m)がそびえる。山頂には火神=雷神である軻遇突智(かぐづち)神をまつる愛宕神社が鎮座する。
平安末,山中の五台峯を唐の五台山に准じ国家鎮護のため神宮寺を建て,文殊秘法が修せられ,東大寺の忠範が阿闍梨として住した。また朝日峯には白雲寺が建てられ,泰澄上人や不動明王以下5尊がまつられ,その奥院には役行者など3柱をまつって愛宕大権現と称したが,これは明らかに修験者の開創である。愛宕山の修験者は比叡山のオーソドックスな天台教団に対抗し批判的なものが多かったので,愛宕山には天狗が住むと俗説が生じ,ときには悪党の逃避地としても利用されたのである。空也上人が登山した伝えもあり,それに関係ある遺蹟ができたことから,延暦寺の貴族化に対し,愛宕山の修験がまったく民間的性格のものであったことを推測させるであろう。
【遠隔地の修験霊場】中世は遠隔の地にも修験者の進出をみたが,東北地方では早池峯・栗駒山・岩手山・鳥海山・蔵王山・出羽三山などの名山が霊地として登場した。三山とは羽黒山(419m)・月山(1,980m)・湯殿山(1,200m)の総称で羽黒山には三山の神を合祀する祭殿がある。湯殿山には奥院として湯殿神社があり巨石を神体とする。同山の東北約1kmにある仙人沢は即身仏(ミイラ)になるため,近世多数の行者が籠ったところである。九州でも英彦山・六郷山はじめ知られた霊山は多く,英彦山(1,200m)では南岳に伊奘諾尊,北岳に天忍骨尊,中岳に伊奘冉尊をまつり,頂上に上宮,少し下に中宮,中腹に下宮があり,下宮には霊仙寺とこれをとりまく多数の坊があり,中宮は行場となっていた。
【山岳の住民】わが国には古くから山中に住み,狩猟をおもな生業とする人々があった。これを山立と称し青森・秋田地方ではマタギと呼ばれた。また近江を中心として山中の木を用いロクロにより椀・盆・御器などの製造を業とする木地師も山の住民であった。彼らは祖神として惟喬親王をまつり,諸国入山を免許され,各種の特権を認めた木地屋文書を所持していた。
〔参考文献〕柳田国男『山の人生』1926,郷土研究社
高瀬重雄『古代山岳信仰の史的考察』1969,角川書店
村山修一『山伏の歴史』1970,塙書房