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●八幡製鉄所 やはたせいてつじょ

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 農商務省製鉄所は,1901年(明治34)に福岡県遠賀郡八幡村に開設された。この官営八幡製鉄所で製鉄・鉄鋼一貫作業が開始されたことは,日本の産業構造における重化学工業化の起点であった。かつて製鉄所は鉄山(たたら山)や鉱山に置かれ,銑鋼の現場,“鉱業”であった。それが海港近くの平地に位置して販売市場を確保し,産業・軍事用の多様な鋼材を生み出すようになり,“鉱業”から“金属工業”“銑鋼産業”が分離していったのである。官営八幡製作所設立の計画は,1891年(明治24)の松方正義内閣により第2議会に提出された海軍省所管の製鋼所設立案に始まるが,何度かの否決の末,1895年(明治28)の第9回帝国議会においてようやくその設立が確定されたものであり,翌年3月29日に「製鉄所官制」が公布された。1897年(明治30)2月に農商務大臣より告示があり,同年6月には約30万坪の土地買収を終えて工事に取りかかった。八幡村の地は,軍需用・一般産業用鉄材供給の目的から次の条件を考慮して選定された。(1)軍事上防御の完全(2)海陸運搬の便利(3)原料供給の便利(4)工場に要する水量の確保(5)職工の募集および工場用品の供給(6)商品販売の便利の6点である。すでに1894年(明治27)に釜石鉱山においてコークス製鉄技術が確立され,木炭燃料から石炭燃料への移行があった。また鉄道運輸事業が発達して筑豊炭田を背後に控える立地条件が八幡の地を優利にしたのである。原料には釜石および赤谷の国内産鉱石を用いる予定であったが1899年(明治32)に伊藤博文によって中国大治鉄鉱との長期購入契約が成立した。当初の生産計画では,当時の鉄鋼年間需要額13万トン(陸軍・海軍・鉄道・造船を含む)の約半分にあたる6万トンを生産目標とした。その内訳は,ベッセマー鋼35,000トン,平炉鋼20,000トン,錬鉄4,500トン,ルツボ鋼500トンであった。設立当時は殖産興業政策にもとづき,民間資本の蓄積が鉄鋼業の分野において十分に熟すまでの官営が考えられていた。しかし1897年(明治30)になると新たな設備計画が発表され,銑鉄・鋼材を含めた生産予定量が21万トンに増大する。これには鉄鋼技術の革新と日清戦争後の国鉄鋼需要急増とが大きく影響していた。1901年(明治34)2月5日午前11時,官営八幡製鉄所第1溶鉱炉に火が入れられた。翌年3月には1日出銑量が公称能力の約8割(100トン)に達したが,八幡製鉄所自製コークスが悪質であったこと,炉設計の技術的問題から,同年7月に高炉の操業を一時中止せざるをえない事態もおきた。開業時も従兼員数は工員2,283人,鉱夫1,691人に及び,当時における最大級の工場であった。その後,日露戦争と戦後の拡張に伴って生産は増加し,1915年(大正4)の銑鉄・粗鋼・鋼材の生産量がそれぞれ8倍・35倍・88倍となり,全国鉄鋼生産の70〜80%を占めるにいたった。第一次世界大戦および戦後の合理化によって生産量はさらに増加した。満州事変勃発後の戦時統制により,官営八幡製鉄所は輪西製鉄・釜石鉱山・富士製鋼・三菱製鉄・九州製鋼の5社と合同し,1934年(昭和9)1月に日本製鉄株式会社となった。こうして銑鉄・鋼塊・鋼材の国内総生産においてそれぞれ96%・53%・44%を占める体制が生まれた。第二次世界大戦後,日本製鉄は分割され,富士製鉄株式会社と八幡製鉄株式会社として新たに発足したのである。1970年(昭和45)には再び,八幡製鉄は富士製鉄と合併し,新日本製鉄株式会社となった。