●柳田国男 やなぎたくにお
アジア 日本 AD1875 明治時代
1875〜1962(明治8〜昭和37)農政学者・民俗学者。兵庫県神崎郡福崎町に松岡操・たけの六男として生まれ、1901年(明治34)、大審院判事柳田直平の養嗣子となる。歌人井上通泰は三兄、国語学者松岡静雄は次弟、日本画家松岡映丘は末弟。幼時、生父が時代に適応できず家が貧しかったことや、生母と兄嫁の争いに発した長兄の離婚のため1885年ごろに一家離散を経験したことが、生涯“家の永続”に心を砕く契機となった。1887年、茨城県北相馬郡利根町で医院を開いていた長兄松岡鼎に引き取られ、東西日本の農村民俗の違いを実感した意味は大きい。1890年、進学のため上京、三兄宅に居候するが、1891年、三兄の知己森鴎外の知遇を得、また桂園派歌人松浦萩坪のところに入門、田山花袋を知る。1893年、一高に入学、1895年には島崎藤村、1896年には国木田独歩と親交をもつとともに、「文学界」に新体詩などを発表する。その作品は、1879年、宮崎八百吉編『抒情詩』に収録されたが、同年藤村の『若菜集』が出たことで、自らの詩才に見切りをつけ、〈歌の別れ〉をするも、文学者との交際はなおしばらく続き、1901年、柳田家に入籍したころに、自邸で始めたサロン的集会がやがて自然主義作家を輩出する竜土会に発展したこと、1907年にイプセン会を主宰したことは日本文学史上も見逃せない。この間、1897年、東京帝大法科大学に入学、農政学を専攻、1900年、卒業と同時に農商務省に就職、産業組合・農会の普及を担当するが、当時の農政理論の主流たる小農保護政策の本質が、農村を低賃金労働者の供給源とすることにあるのを見抜き、農民を保護なしで自立できる中農に育成しなければ、農業は〈国の病〉になると主張し、上司と対立、1902年、法制局参事官に移される。形は栄転であるが、農政の現場から外されたことへの憤懣は1910年刊行の講演集『時代ト農政』に満ちている。1910年、内閣書記官記録課長を兼任、1914年、貴族院書記官長となるが、議長徳川家達と衝突、1919年、詰腹を切らされて官界を去り、1920年、東京朝日新聞社客員となる。1921年、国際連盟常設委任統治委員に就任、3期にわたってジュネーブで活躍ののち、1923年に辞意を表明する。1924年、東京朝日新聞社に論説委員として正式入社するが、1930年の引退までにものした389本の社説の2割近くが農政関連であるところに無署名ながら農政学者の面目とその民俗学の経世済民性の根源をみる思いがする。農政官僚として自らの考えを容れられずに挫折した前後、折から自然主義作家として評判を高めていたかつての文学青年仲間の花袋や藤村と〈一つ野原の畑を耕〉すことを拒否し、佐々木喜善から聞いた話を一字一句ゆるがせずに推敲・彫琢して『遠野物語』として上梓、日本列島先住民とみなした山人の存在に関心を示す。このあと新渡戸稲造と郷土会を組織したり、南方熊楠と交流をもったこと、「郷土研究」を創刊したことは民俗学への模索状況を示すが、1920年の〈最も自由なる旅行〉の所産『海南小記』『雪国の春』『秋風帖』には旅を学問の方法の主要な一つとしたその“ムラ”の把握の特徴が景観主義的限界とともによく現れている。1924年から“新しい学問”として民俗学の確立をめざし、「民族」を出すとともに、自ら農民史研究を推進するも、その性格もあって一時孤立するが、1935年、その還暦を記念して開かれた日本民俗学講習会を機会に民間伝承の会が結成され、〈ごく普通の百姓〉たる常民の学として民俗学を標榜する。以後、戦時中にかけて日本人の信仰、とくに祖先崇拝の解明につとめるが、敗戦後は民俗学を“現代科学”たらしめんとし、その実践の一環として国語・社会科の教科書編纂にかかわる。さらに晩年、日本人のルーツや稲作渡来のコースに関心を抱き、1961年刊行の『海上の道』で大胆な仮説を提示する。
〔参考文献〕岩本由輝『柳田国男』正続、1982〜83、柏書房
色川大吉『柳田国男』1978、講談社
