●館 やかた
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屋形とも書く。貴人や大名・豪族・有力武士などの邸宅のことであり,古くは宿所・たち,という館の字をあてた。『吾妻鏡』の1190年(建久1)の源頼朝の書状に,宿所のことは〈家人共の屋形などを指して,宿しむべく思ひ給ひ候〉とある。また1192年(建久3)に浜御所と呼ばれる名越館に渡御されたことがみえる。平安時代末,武家の勢力が次第に盛んになり,元来武家は中央に志を得ぬ公卿達が,地方に下って勢力を築いたものであるから,その住宅には自ら寝殿造の影響があった。多くは地方住宅を根幹として造った独特のものであった。平家が滅び,源頼朝が鎌倉に幕府を開いて,武家の天下は愈々定まったが,その幕府の館は,規模形式は武家政治の実用に即して営まれ,平安時代の宮殿などとは異なった。武将の邸宅館も,また,多くは武家としての特色にもとづいて造られた。武家の邸宅といっても,身分境遇により著しい差がある。簡単な一棟二棟のものから,多数棟をようする大規模な邸宅にいたるいくとおりのものがあった。当時質実剛健を信条とした武家の生活に即して実用を旨とした。武家造は一棟あるいは棟続きの集合家屋を形成し,その中に種々必要な間取りを組み合わせ,とくに防御の配慮を行い,建物の平面が複雑に不規則であった。たとえば前の建物と後の建物との椽から椽へ枝を置き渡して,かよっていくようにしたものもあった。『法然上人行状絵図』にある美作国(岡山県)久米の押領使漆時国の館がその例である。この絵図にみられるようにまわりには板塀や柴垣生籬をつくり,冠木門や藁葺板葺の簡素な門を設けた。大規模なものになると,土塀をめぐらし,棟門や四脚門などの立派なものをつくり,上土門(あげつちもん)を用いられ,外周りに濠をめぐらし,門の内に矢倉を設けたりして,厳重に固めた。『家屋雑考』に記載の〈当時武士の家居というは,又別に一つの造方ありしに似たり,其故は総じて武士は国々に所領ありて,其地に常住し時に臨みて,在京する事になれば,たとえ官位尊き家柄の人々とても,何某殿の御宿所など称し,止宿一片の所と心得る故,おのずからその造作も無造なるを以て常としたるものなり,中昔の隻紙どもに註せる,義家朝臣の館,頼光朝臣の御宿所などいえるさまにても知るべし…〉というものである。『平家物語』には土佐坊が斬られる条に〈其外侍ども御内に夜討入りとて,あそこの宿所,爰の屋形より馳来る程に,判官程なく六七十騎になり給ひぬ云々〉とある。室町時代になり,名分観念がくずれ,将軍の居所(幕府)を御所と称した。守護大名の住居の屋形の敬称である。室町幕府の管領の一つであった細川氏を“御屋形様”と呼んだのはその一例である。讃岐(香川県)に於いては細川頼之の居館跡といわれる地が二カ所ある。一つは香川郡香南町にある岡の館であり,いま一つは『太平記』に清氏との対戦の折,頼之の居館は宇多津にあったとある。今の宇多津町の大門付近であるという。戦国時代の武田信玄から上杉氏に宛てた〈上杉殿,御館〉とある文書が数多く遺っている。江戸時代になっても“御屋形”の称号の許されていた者には,細川三家・島津・伊達・上杉・宗(対馬)・山名・最上など中世以来の守護大名の子孫が多い。徳川氏の一族か数代以来の有力外様大名ないしは,家柄の旧い由緒ある大名に限られた。近世農村では一般に親方という言葉がある。中世の座の座親と座子からきたもので,おそらく御館(おやかた)の遺称であろう。長野県伊那では御館,被官というように対称的に用いられている。御館=親方の転化であろう。もとは屋形様(上級武将)に仕える家臣をいみした名残りである。近世の関西地方では芸妓の住居,検番や置屋を“みせ”と呼び,置屋住まいでは“みせ”と“やかた”は同じである。福岡県地方では二人称の敬称に“御家”がある。土地の旧家また大家(たいけ)といわれるようのもののうける称号である。讃岐地方では名主(なぬし)のことを大家とも,旦那衆と呼ぶ敬称がある。〔参考文献〕藤原義一『日本住宅史』1943,弘文堂書房