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●八重山群島 やえやまぐんとう

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 琉球列島の南端に位置する群島。方言ではヤイマ,エイマ。宮古群島と総称して先島(さきしま)とも呼ばれる。総面積58,467平方km,人口44,314人(1980・昭和55),人口密度75.8/平方km。有人島は石垣島(石垣市)・西表島・波照間島・黒島・小浜島・竹富島・新城島・(上地島・下地島)・鳩間島・由布島(以上竹富町)・与那国島(与那国町)の計11島で1市2町を構成する。イリオモテヤマネコの棲息で知られる西表島は,未踏の原生林の多い沖縄第2の大島であり,与那国島は日本の最西端に,波照間島は最南端に位置する。気候は亜熱帯海洋性で,7〜9月にしばしば襲来する台風は降雨をもたらすが,一方,風害や塩害も多い。第二次世界大戦前は米・粟・甘藷などの農業を主産業としたが,戦後は甘蔗,パイナップルの裁培加工にもとづく第二次産業も盛んになったが,現在はふるわず,一方,1970年頃より群島全域に過疎化がめだってきている。本土復帰後は観光事業も盛んとなり,第三次産業従事者は50%以上となっている。広大な原野をもつ西表島・石垣島は王府時代からたびたび開拓事業が行われてきたが,これらの地はいずれもマラリアの有病地であったから,ほとんど失敗し,廃村となった。戦後,米軍によってマラリアは撲滅され,再び開拓が行われたが,みるべきものは少ない。本土方言に対する琉球方言の内部区分には諸説があるが,八重山の方言は一般に,先島方言(宮古群島方言と八重山群島方言の総称)と与那国島方言に区分される。八重山と日本本土との交通は古くから見られ『続日本紀』には元明天皇714年(和銅7)に入貢したとされるが,14世紀頃までの八重山の歴史は記録上では明らかでなく,長い間独自の族長支配が展開されていたと考えられている。琉球王府との関係は,1390年(明徳元)察度王のとき,入貢するようになったが,なお独自の族長支配が続いたと考えられる。ところが1500年(明応9)尚真王のとき,オヤケ=アカハチの反乱がおこり,これを機に琉球王府の支配下におかれるようになる。以後,琉球王府による中央集権制の確立,さらに1609年(慶長14)の島津の「琉球入り」をへて国内統治体制が整うが,それにつれ王府の八重山支配はしだいに強化される。とくに先島に課せられた米・布などによる人頭税は苛酷な税制として知られ,これにまつわる悲惨な話が多い。人頭税は1903年(明治36)まで続いた。行政的には蔵元により統治され,各村に置かれた番所を通して農民を支配した。廃藩置県後は八重山郡となる。また身分上は「ユカルビィトウ」といわれる系持(士族)と「ブザ」と呼ばれる平民に区別された。沖縄本島にみられる父系的親族集団「門中」は,士族・平民にかかわりなく形成されているが,八重山のこれに対応する「一門」は,士族階層にしかみられないことから,八重山の一門形成は比較的新しいものと考えられている。宗教的な面では,聞得大君を頂点とする琉球王府の宗教上の中央集権制にくみこまれ,大阿母が八重山の全御嶽(おたき)を支配する体制がつくられ,村々の御嶽に属する女性神職「ツカサ」は,その傘下に入り,村の祭儀を執行した。現在,この全体組織は失われたが,末端の組織はまだ機能しているのがみられる。八重山は芸能の宝庫ともいわれるが,それらは人頭税時代のものとされるものが多く,苦しい生活を生きる農民の願望をこめた宗教的歌舞と,支配者に対する批判精神がうたわれているとされる。また流罪の王府の役人,公用で首里の王府に旅した島役人らによって大和芸能,沖縄古典舞踊,さらに獅子舞,弥勒などが入ってきて,それらがしだいに八重山化したとされるものも多く,多彩な様相を呈している。1921年(大正10),柳田国男の南島採訪は八重山にまでおよび,この成果は『海南小記』となるが,ようやく八重山文化は中央学会に知られるようになる。

〔参考文献〕宮城文『八重山生活誌』再刊1982,沖縄タイムス社