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●モンテスキュー

ヨーロッパ フランス共和国 AD1689 フランス王国

 1689〜1755 フランスの啓蒙思想家。『法の精神』の著者。ボルドー近郊のラ=ブレードの城館に,法服貴族の家系に生まれる。11歳から5年間,パリ東北のジュイイのオラトワール派学院で,ついで1706年ボルドー大学で学び,2年後法学士の資格を得る。1708年ボルドー高等法院弁護士となり,1714年に同評定官,1716年に伯父の死去により男爵領と円形帽長官職を相続。パリ滞在が多く(1709〜13,1724〜25),高等法院の一員としては精勤とはいえなかった。1721年『ペルシア人の手紙』を匿名で世に問い,ルイ14世の征服戦争や摂政時代を諷刺。1716年にボルドーのアカデミー会員になったのにつづき,1728年にアカデミー=フランセーズにも入ることができた。その後すぐ,中欧・南欧を旅行し,1729年から1731年までイギリスに滞在。知識人社会と接し,議会も傍聴した。帰国前,フリーメーソンの一員になり,ラ=ブレードに帰ってから『ローマ盛衰原因論』を執筆し1734年,アムステルダムから出版。同年,『法の精神』の執筆を開始し,1748年完成。ジュネーブで出版。原初的理性の存在をみとめてホッブズを批判するが,社会現象の道徳的要因を重視し,自然法に照らしてあるべき国家法の原理の追究ではなく,存在するがままの政府・実定法の分析を行った。イギリスの国制についての章では,渡英中に見聞したウォルポールとボーリングブルック一派の権力抗争から多くを学びとったといわれる。売官制の擁護などをヴォルテールから批判されるが,法服貴族=高等法院を絶対王政の専制化をチェックする中間団体として重視したことは確かである。イエズス会などからの批判にたいし1750年,『「法の精神」の擁護』を書く。1753年,『百科全書』のダランベールの序文に賛辞を呈し,「趣味」の項の執筆を申し出る(ただし未完)。1755年,パリで熱病にかかり死去。「人間の科学」におけるニュートンともいわれその権力論,とくにその区別と結合は,フランス革命前,マレー=デュパンなどの制限君主制派に,また革命開始後,モナルシャンのムーニエなどに吸収されるが,王政復古時代にもティエリ・ギゾーから天才的直観と再評価され,トラシーもこれをとりあげた。