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●紋章 もんしょう

アジア 日本 AD 

1. 日本

 紋章は,文様の一種であるが,広い意味では,氏族・家・国家・軍団・自治体・結社・学校・商社などの,有機的な関係において成立している一つの団体の標識として,ある図様的特徴を備えた形象に固定したものをいい,狭い意味では,ここにとりあげたように,氏族や家の標識として定着したいわゆる家紋・定紋紋所と呼ばれ,家名や家系のシンボルとされてきた文様をいう。

【起源】日本の紋章は,まず公家社会におこり,ついで武家社会におこったとみられる。11世紀の前半ごろから,参賀・退下・物見の際に,ほかの車とまぎれることを避けるために,自家の牛車にそれぞれ持主個人の好みの文様を描いた。諸事優雅を旨とした公家のことだから,単なる目印としてだけでなく,その持主の好尚を示す装飾をも兼ねていたことはいうまでもない。したがって,衣服の織文系統のいくらか複雑で繊細な文様が好まれた。初めは,その文様を好んだその人1代限りのものであったが,中世以降公家社会において,家格も家職もその家に世襲的に定着し,すべての面で旧儀先例を重んずる意識が強くなるにつれて,牛車の文様も,父祖の好んだものを子孫が踏襲するようになり,個人の趣味好尚を超えて,その家の紋章として定着するとともに,牛車のみならず,衣服や調度にも描かれるようになった。

 武家のほうは,一族郎党団結して,武器をとり命を賭けて敵と対決することを本領としたから,敵味方を一目して弁別するための合印・目印がなくてはならない。それが軍旗そのものであり,旗に描かれた紋章であり,将帥の居どころである本営を示す陣幕の紋章であった。公家の紋章が,優雅な装飾性を忘れなかったのに対して,武家の紋章は,あくまでも遠目のきく端的な目印であり,士気を鼓舞する尚武的紋章であることに重点がおかれた。

【歴史】1274年(文永11),1281年(弘安4),両度の役に従軍した肥後(熊本県)の豪族竹崎季長が画工土佐長隆父子に描かせ,自ら詞書を書き入れたと伝えられる『蒙古襲来絵詞』をみると,従軍した九州の豪族たちが,それぞれの家の紋章を描いた旗を掲げて,異国の敵に立ちむかっている。さらに下って,日本の全土にわたり,宮方(吉野の天皇)と武家方(京都の足利幕府)とが,抗争のるつぼに投ぜられた南・北両朝50余年を綴った軍記物語『太平記』にも,いたるところに敵味方の軍勢の掲げる旗を列挙した場面が出てくる。作者はその武士たちの姓氏や苗字を明らかにしようとはせず,ひるがえす旗の紋章のみを記しただけである。当時の将兵はもとよりのこと,読者もそれだけで,その旗の主がどこの誰かがわかったのであろう。さらに,応仁の大乱(1467〜77)ののち全国的に戦国の乱世となり,武士たちは明けても暮れても戦場を馳けめぐっていた。味方でなければ敵であった。それを識別するために,紋章はますます必要度を増し,旗だけでなく,武具・軍装,そのほかのあらゆるものに紋章をつけた。惣領制は崩壊し,相続争いが続発して氏族は分裂し,兄弟・叔姪(しゅくてつ)たがいにその権益をめぐって死闘を繰り返したのが戦国時代であった。専従の戦闘要員,つまり武士の数は増えに増えた。もはや,1氏族1紋章では用が足りなくなった。族党が分化するたびに,新しい素材を取り上げるか,基本形に手を加えて変化紋を工夫するかして新しい紋章をつくりだし,紋章の数は増加するばかりであった。そのうえ,戦闘の様相も大きく変化した。源平合戦のころのように,長々と名乗りをあげて始まった「一騎討ち」の時代は去り,敵味方入り乱れての戦いとなった。しかも,どのような強烈な興奮・極度の乱戦状態のもとにあっても,敵を見誤ってはならないし,それ以上に,そのときの戦功を,彼の臣属する将帥に正しく評価してもらはなくてはならなかった。そのためには,遠目には旗指物や馬標を,近づいては身に着け手にする武装や武具を,敵味方の目に,力強く明快端的に印象づける工夫に心胆を砕いた。そしてその中心は,やはり紋章であった。

平治物語』では,平家の軍勢3,000余騎が,30余流(ながれ)の同じ無文の赤旗のもとに,どっと鬨(とき)をつくったとあるが,大坂夏の陣(1615)を描いた『大坂夏陣図屏風』(大阪城天守閣蔵)では,登場人物5,000余人,それらの将兵が,おのが家々の紋章を描いて手にし背にした旗のたぐいは,実に1,300余本に及んでいる。将帥だけでなく,一人一人の武士の家に,戦陣における識別のための目印としての紋章が用意されていたのである。ついで,戦陣の武装だけでなく,平和な日常の衣服や什器にも紋章をつけて家を識別する習俗がだんだん成熟していく。武士が,素袍大紋肩衣などの礼服に紋章をつけるようになったのも,室町時代の後半からだとみられている。そのころから,図柄も,それまでの写実的なものから,しだいに左右同形の整った構図をとるようになる。

 いわゆる“元和偃武”,大坂夏の陣によって豊臣氏が滅び,徳川260余年の太平の世の中となると,紋章は,戦場における識別の役割を完全に失い,身辺を美化する文様としての役割のほかに,公の儀式や私的な社交の場において,家格を識別する標識としての役割を帯びるにいたった。大名・旗本・陪臣と,すべての武士の家格は,江戸時代初期に定着したまま,ほとんど改変されることなく明治維新におよんでいる。このあいだ,家の位づけである家格によって,権利と義務とが,ほとんど変わることなく世襲されたが,それが江戸期の幕藩秩序である。家系のシンボルともいうべき紋章は,必然的に,家格の標識としての役割をもになうようになった。江戸時代の太平がつづくにつれて,紋章の使用は,百姓や町人のあいだにも普及していった。しかし一部の家を除いて,一般の庶民は,苗字を称することを許されなかったから,家系とは関係なく,好みの紋章を自由に選んだものと考えられる。将軍家や領主の紋章以外は,とくに規制は受けなかったようである。

【種類】日本の紋章は,次に列挙するように,この天地間のすべての物象をといっていいほど,あらゆる素材を図案化した。日本の紋章は変化紋を加えると,6,000種を超える。

 (1)天文・地理 日・月・星・雲・霞・稲妻・山・水・波。

 (2)植物 菊・桐・葵・藤・龍胆(りんどう)・梅・桃・桜・栗・梨・柿・茶の実・胡桃・牡丹・桔梗・酢漿(かたばみ)草・沢瀉(おもだか)・茗荷(みょうが)・橘・梶・柏・松・杉・柊・銀杏・柳・楓・竹・笹・稲・蔦・丁子・田字草(でんじそう)・虎杖(いたどり)・棕櫚・杜若(かきつばた)・萩・大根・蕪(かぶら)・薺(なずな)・薄(すすき)・撫子・菫・河骨(こうほね)・蓮・葦・葛(くず)・地楡(われもこう)・歯朶(しだ)・山吹・椿・芭蕉・連翹(れんぎょう)・蒲公英(たんぽぽ)・鉄線・朝顔・水仙・蘭・麻の葉・南天・枇杷・葡萄・瓜・夕顔・瓢(ひさご)・茄子・唐辛子・蕨・梔子(くちなし)・粟・車前草(おおばこ)・葉菊草。

 (3)動物 馬・鹿の角・兎・蝙蝠・鶴・雁・鷹・鷹の羽・鷲・鳩・雀・鶏・烏・鴛鴦(おしどり)・千鳥・尾長鳥・亀・蛤(はまぐり)・半辺蚶(いたやがい)・帆立貝・海老・蟹・蝶・蜻蛉(とんぼ)・百足・想像上の動物(鳳凰・龍)も含まれる。

 (4)築造物 千木(ちぎ)・瑞籬(みずがき)・鳥居・格子・庵・甃(いしだたみ)・懸魚(けぎょ)・井筒・井桁・追洲流(おうすながし)・蛇籠(じゃかご)・澪標(みおつくし)。

 (5)器材 幣(ぬさ)・瓶子(ヘいし)・簾・鈴・額・獅子頭・折敷(おしき)・祇園守・輪宝・宝珠・七宝・羯磨(かつま)・錫杖(しゃくじょう)・法螺・打板(ちょうばん)・弓・矢・的(まと)・弦巻(つるまき)・剣・扇・檜扇(ひおうぎ)・扇骨・地紙・軍配・団扇・兜・鍬形・総角(あげまき)・杏葉(ぎょうよう)・轡(くつわ)・船・帆・舵・櫂・錨・車・筏・羽箒・貫簀(ぬきす)・合子(ごうす)に箸・盃・五徳・釜敷・金輪・鍵・環・鋏・鎌・釘・釘抜・鉞・槌・半鐘・糸巻・蝋燭・洲浜・結綿(ゆいわた)・熨斗(のし)・宝結(たからむすび)・赤鳥(垢取)・笄(こうがい)・傘・笠・烏帽子(えぼし)・頭巾・袋・網・網目・籠目・水車・杵・滕(ちぎり)・梯子・輪鼓(りゅうご)・独楽・鼓・鞠・鞠挟・羽根・羽子板・知恵の輪・風車・豆造(まめぞう)・将棋駒・琴柱(ことじ)・三味線駒・筆・巻紙・巻絹・文・短册・旗・銭・分銅・枡・曲尺(かねじゃく)・算木(さんぎ)。

 (6)文字 一・三・八・九・十・百・万・山・川・州・兒・有・無・大・上・中・吉・葵・本・卍(まんじ)・弓・正・鳳・由・佐・士・鳩・藤・羽・目・淡・松・竹。

 (7)図符 九字(くじ)・晴明判(せいめいはん)・円相・天地・太極図・井田(せいでん)・源氏香図。

 (8)文様 巴・菱・引両・木瓜(もっこう)・目結(めぬい)・輪・輪違・鱗・村濃(むらご)・直違(すじちがい)・亀甲・浮線綾(ふせんりょう)・唐花(からばな)・花菱・角。

【紋章選定のモチーフ】牡丹の花や鳳凰や弓や葵の葉などを,なぜ紋章にしたのか。その家のシンボルであるだけに,紋章の選定にあたっては,家それぞれに相当の動機(狙い・意義)があった。初期においてこそ,公家においては優美さがおもな狙いであり,武家においては遠くから見分けられることが重要な動機であったが,時代が降るとともに,いろいろなモチーフから紋章が考察されるようになった。紋章に託する意義を重要視するようになると,もっともらしい意味をこじつけたものまで現れた。

 日本の紋章を組織的に研究した沼田頼輔の大著『日本紋章学』においては,紋章選定の狙いを,つぎの6種類に整理している。

 (1)尚美的意義 美しい花や葉や木瓜や巴などのような,図形に趣ある文様を紋章としたもので,比較的公家の紋章に多い。

 (2)指事的意義 家の名や屋号を端的に,あるいは象徴的に暗示したもの。鳥井氏の鳥居,酒井・井口氏らの井筒や井桁など。

 (3)瑞祥的意義 不老長生や子孫繁栄などを祈ったいわゆる縁起のよいことを託した菊・桐・鶴・亀,仙人の住む洲浜や吉文字など。

 (4)記念的意義 祖先の名誉の事績や発祥の地を記念した,扇の的の与一の末那須氏の扇に日の丸や,児島におこった児島氏の児の字など。

 (5)尚武的意義 弓・矢・弦巻・鉞などの武器,兜・鍬形・軍配などの武装そのほか軍用のものを図案化したもの。

 (6)信仰的意義 神仏の加護を祈り,あるいは安心立命を願った毘沙門信仰の謙信の毘の字や,信長の禅意をこめた無の字など。

〔参考文献〕沼田頼輔『日本紋章学

渡辺三男『日本の紋章』

丹羽基二『家紋大図鑑』

2. ヨーロッパ

盾紋の発生】封建貴族または騎士たちは,所領経営が独立状態であったため自己本位で共同精神を欠き,競争心・嫉妬心による激しい対立感情の下にあった。さらに,封建主従関係が宗主と個々の封臣という縦のつながりで成り立ち,横のつながりが希薄で相互信頼が欠けた。このような思想の下では集団の標識は不要で個人の標識が重要であった。封建社会完成期では,戦場あるいはトーナメントなど集合の場における自己主張のため,自他を最も効果的に識別させるものが,身に帯びる盾に描いた自己のしるしであった。これが盾紋である。時をへずして盾紋と同一の紋様はよろいの外衣・馬衣などにも描かれた。古来ヨーロッパで使用された盾には材質・形態とも種々あるが,ノルマン人は凧(たこ)型と呼ばれる木盾を使った。この盾は立てると肩の辺まである逆ラッキョウ形で,騎馬戦士の上半身を湾曲した上部が覆い,左下半身を細長くとがった下部が覆うという利点があり,広く騎士たちの採用するところとなった。初期十字軍騎士が用いた盾がこれである。この凧型が,よろいの発達に伴って短くなり,13世紀には“火のし型”と呼ばれる今日の家紋にみられる形となった。鉄板よろいの完成期ともいえる15世紀になると,実戦で盾が使われることがまれになり,パレードやトーナメント用の装飾品となった。家紋発生の時期についてつねに傍証とされる“バユーのタピスリー”は1066年のノルマン征服を描き,ノルマンおよびサクソンの盾や旗に描かれた多くの紋様を描写していて,明らかに部族単位より個人の紋章への推移を語っている。しかし,これらの紋様が世襲されたという実証がなく,そのため当時は個々の趣好を盾に描いただけのものとされている。12世紀に入ると,盾に描く紋様は意識的に自己の存在を明示して他人との識別に使われ始めた。やがて,父の武勲を物語る盾紋を子が継承するようになり,盾紋が世襲性をもつことになった。この世襲性発生の時期をもってヨーロッパ家紋の発生期とし,厳密には12世紀の第2四半期があてられている。現存する記録によれば,この条件を満足させる盾紋の一つに,1127年イギリス王ヘンリ1世が娘婿であるフランスのアンジュー伯ジョフロワに与えた盾に描かれている獅子紋がある。この“青地に6匹の金獅子紋”はジョフロワの孫にあたるイギリスのソールズベリー伯ウイリアム=ロンゲーペ卿(ヘンリー2世の庶子)の継承するところとなり,以来同家に伝承された。そのほか最古の家紋として例証される有名な盾紋は,イギリスのハーフォード伯デ=クレア家の“金地に赤色三本山形紋”(1138〜46ごろ),フランス王ルイ7世が初めて用いた“青地に金の百合小紋”(1137〜80ごろ)などがある。イギリス王家の“赤地に3匹の金獅子紋”は,現存する記録に関する限り1198年をもって初見とする。ハプスブルク家の“金地に赤獅子紋”などはさらに1世紀も遅れた1282年が初見とされている。

盾紋の種類】盾に描かれる紋様は,オーディナリーチャージとに二分される。オーディナリーとは,元来木盾の補強に付けた金属のバンドを紋様化したもので,補強個所により紋様が違ってくるが,単純な幾何学的直線紋様で基本形10種ある。この10形は無限に展開できるので,オーディナリー系の紋様は多い。またこの系統には○△式のサブ=オーディナリーと呼ばれる従属紋様が加わる。チャージとは,意味のある物相画をさすもので,動植物・天地文・器財器具・造営物等を描いたすべての絵紋様を総括する。前述のデ=クレア家の山形紋はオーディナリー紋であり,フランス王家の百合紋やほかの獅子紋はチャージ紋である。オーディナリーチャージは紋様の性格上からの分類であって,優劣・新旧には関係ない。一般には,ヨーロッパの紋章といえば,わし・獅子で代表されるチャージ系の動物紋が圧倒的に多いとの誤伝があるが,総体的にはオーディナリー(“ありふれた”の意味)系の紋様のほうが普遍的であった。のちに盾紋の合成・複合が行われて両系が混合したため誤解が生じたものであろう。またヨーロッパ家紋には,所有者の名前と紋様の名称とを語呂合わせする“絵とき紋”が初期には多かった。

盾紋の合成化・複合化】11〜12世紀には,知行世襲の概念が確立し13世紀には知行の世襲制が定着した。このころから貴族たちは自分の権威を家紋の上に表示した。(1)婚姻により妻方の家紋との合成。12世紀末には女子による知行相続が認められていたので女相続人と結婚した場合は妻方のすべてを獲得し,両家の家紋も合成される。婚姻合成には,その方式に時代差があり,13世紀中期には夫の盾紋の左半分と妻の盾紋の右半分を合成したが,奇形を生じ品位を落す欠点があった。そのため13世紀後期になると夫の盾紋全体を盾の左側に,妻方を右側に納める方法が考えられたが,両者とも細長くなりすぎてバランスを崩す欠点が生じた。こううした欠点を解消する方法として14世紀初期に現れたのが四ツ割紋であった。この場合,左上の第1郭を代表紋とし,右上の第2郭は合成された意味となり,第1郭は斜め下の第4郭に,第2郭も斜め下の第3郭にそれぞれ反復される。当主と女当主という対等の結婚では夫の家紋が代表紋となるが,婿入りの場合は妻の家紋が代表紋となる。こうして成立した婚姻合成紋は,その後再び女相続人と婚姻をもつと,再合成されて盾紋は複合紋となり,さらには六ツ割・七ツ割・八ツ割と際限なく展開するが,最近では盾紋の複雑化を避ける傾向にある。(2)封建主従関係を示す合成。家臣が主人の盾紋の一部または全部を自分の盾紋に組み入れる方法だが,15世紀にはすたれている。(3)2カ所以上の領土・封土を所有,またはその所有権を主張する場合の合成。結果的には(1)と重複する場合が多いが,ハプスブルグ家のように領土購入の場合もある。領土の主張についてはイギリス王エドワード3世が母の権利からフランス王位継承を主張して,フランスの百合紋を自己の盾紋に合成した例が有名である。封土の主張がおきるのは女相続人と結婚した場合に多い。女相続人は父の生存中は知行相続人になれない。男子出生の可能性があるためである。この場合は婚姻合成紋であっても“封土の主張”を意味する方法がとられる。また婚姻とは別に封土加増の場合がある。(4)下賜紋添加による合成。ヨーロッパでは下賜紋を自己の盾紋に添加する方法をとった。そのため合成紋となる。(5)役職紋添加による合成。おもに後述する聖職者・公的役職者の盾紋である。(6)分家標識紋添加による合成。今日では分家成立の場合,次男以下9男までに対する分家標識紋には共通の規定紋が国により決められているが,18世紀までは各自が自由にモチーフを選択した。たとえばウォルター=ローリー卿の“足なし鳥(つばめ)”は第2子である彼が使用した分家標である。ちなみにイギリスにおける今日の規定で足なし鳥は第4子の分家標となっている。

【合成家紋・複合家紋への推移】盾紋は,その内容が合成されていても複合されていても,形態上は盾だけの単一家紋である。しかしヨーロッパの家紋は,盾形という単一形態から以下に述べる合成形態となり,さらに複合家紋となる推移をたどった。

 (1)合成家紋 家紋の所有者たる騎士という存在がキリスト教ヨーロッパに普遍性(国際性)をもつものであったため,第1次十字軍直後におこった盾紋の世襲化は急速にすすんだ。十字軍以外に家紋の普及を促進させたものにトーナメントがある。11世紀後期のフランスにおこり,12世紀初期より大流行した武術試合をトーナメントといい,ヨーロッパ各地の騎士が参集した。試合場は模擬戦場であったが,人気のある社交場でもあったからニューファッションには敏感である。このことから盾紋の発生をトーナメントに置く説もある。13世紀末〜14世紀初期にかけて冑(かぶと)の立物(たちもの)が発達し,トーナメントでの使用が流行した。以前の立物には羽や角などが好まれたが,しだいに凝った派手なものとなり,各人自慢の立物は盾紋と同様に自己の標識となった。ここに家紋は,盾の上に冑を置く形態をとり,盾と冑の合成家紋が成立した。イギリス・ドイツ・オランダ一帯では立物は重要視された。ドイツ家紋の特徴としては盾紋のモチーフと冑の立物のモチーフが同一である例が多い。またフランス家紋では,冑は盾と合成しても,のちに立物を省く習慣がおこり,ラテン系諸国に固定した。

 (2)複合家紋 百年戦争の時代になると家紋の構成はさらに複雑化し,盾と冑のほかにも数点の武具が加えられて図案化される。この複合形態をアチーブメントと呼び,今日にみる家紋の完全形態がほぼ完成した。アチーブメントの構成要素は,国により,また家柄や役職によって一様でないが,盾と冑は必須であり,さらに冑の上にかぶるランバキンも各国共通である。これは十字軍騎士が熱よけに使った冑ずきんが起源とされ,歴戦の働きでボロボロになったのにちなんでテープ状に描かれる。この3要素のほかに,巻紙に記した家のモットー,それにサポーターと呼ぶ一対の盾支えを描いて盾を左右から支える。国により以上の構成要素に付随する2,3の副次的な要素が加わる。大陸では17世紀ごろにパビヨンと呼ばれた野戦テントで家紋を包む方法が好まれ,今日もその様式が継承されている。また旗に家紋が描かれることから,旗が加わる例も多い。冑が複数で描かれる場合は,もちろん立物に意味があり,盾紋合成の(1)と(3)の場合である。こうしてヨーロッパの家紋の複雑化は19世紀には頂点に達した。

【色彩】木盾の補強に用いた金属は,おもに鉄であったが,銅系統の金属も使われ,磨きあげた感じが金・銀に似るため早くから盾の装飾色として考えられた。盾が金属製になると,金を黄色,銀を白色で描いた。そのため黄・白を金属色という。色彩としては青・赤・黒の3彩が最も古く,14世紀ごろまでの家紋では,赤と紫の区別さえないのがふつうである。紫の次に緑が加わって5彩となった。緑色は周囲の草木に混じ,戦場での識別が不都合という理由で採用が遅れた。15世紀ごろから大陸では赤紫とオレンジ色が加わるが,広く普及しなかった。また色彩ではないがテンやリスの毛皮を紋様化して色彩に代えて使用した例も多く,紋章上は色彩の一端に加えられている。配色には経験が一つの不文律をつくった。すなわち,光線の反射によりおこる消色作用を避けるため,金地の上に銀の紋様(またはその反対)を描かない。同様に5彩は,そのいずれもほかと紋地・紋様としての組み合わせができない。したがって金または銀との組み合わせが必須となるが例外規定がある。盾紋チャージ紋である場合に,そのもの本来の自然色で描くことができる。たとえば樹木の茶色の幹・クジャクの羽・花などの場合であるが,こうした際は“自然色”とただし書きを付けることで配色上の規定は適用されない。ヨーロッパ家紋では同一国のなかで同一の紋様を使用することは不法とされ,古くは決闘,ついで騎士裁判の対象とされたが,同一の紋様でも配色が異なれば問題はない。

【共同体の紋章】家紋が一貫して貴族だけの所有物と考えられていたイギリスと異なり,フランスやドイツでは13世紀になると市民層も家紋をもつ傾向が現れた。当初は遠慮もあって普及は緩慢であったが,この両国を中心として大陸では盾紋に限り市民の家紋所持は放任されていた。

 ギルドの発達とともに各自由都市も,彼らを庇護する王侯の紋章を掲げて海上の安全をはかったが,しだいに独自の紋章を考案することになる。14世紀中期には,大陸の慣例に刺激されたロンドン市が許可なく紋章をもつことになり,最も保守的なイギリスにも都市の紋章所持の風潮はひろまり,16世紀中期には大商社の紋章所持が許可されることになった。

 大学の紋章は,創立者の家紋がそのまま使用されたが,時代とともに独自の紋章を考案した。

 教会の紋章は騎士の家紋と出発点をともにする。修道院や司教区は,その守護神の表徴や標識を紋章に選んだ。とくに司教区の紋章は,一般には司教個人の家紋と合成された。司教が代われば合成も変わってくる。当時の司教あるいは修道院長は,時あたかも教皇権の最盛期のもと,聖界においてはローマ教皇の代官であったが,一方,俗界においては広大な封地を所有する世俗領主でもあった。12世紀に司教に対する封建主従関係は免除されるが,その世俗領主権のため13世紀の貴族階級序列確立の際には大貴族の格式が与えられている。フランスのサン=ドニ修道院長やクリュニー修道院長は別格であったが,ランス大司教・ラン司教・ラングル司教らは公爵待遇,イギリスのカンタベリー大司教・ヨーク大司教・ダーラム司教らも公爵待遇であった。こうした聖俗二面性をもつ教会貴族が家紋をもったのは当然である。

【女子と家紋】娘は父と同一の家紋を使うが盾形とせず冑も合成しない。一般には菱形紋とし,ときに楕円形ともする。女相続人が結婚すると父の家紋は夫の家紋と合成されて子孫に継承される。兄弟のいる女子は一般には実家の家紋を婚家にもち込まず,たとえ夫の家紋と合成しても彼女一代限りである。夫が先立つと彼女は再び菱形にもどる。

【紋章の左右】紋章学でいう左側・右側とは,盾をもつ者,すなわち本人の側からの表示であり,みる者の側からは左右が逆になる。本文では後者の側から表示した。

紋章官(ヘラルド)】記録上ではヘラルドの最初の出現は1132年である。当時のヘラルドはトーナメントを盛りあげるために雇われた道化か吟遊楽人のようなものであり,出場騎士を派手に賞揚することが仕事であった。彼らはトーナメントを求めてヨーロッパ各地をまわる渡り鳥にも似た性格をもっていた。当然彼らの家紋・系図にかんする知識は普遍的になり,12世紀末にはトーナメントの準備・布告・騎士紹介・進行・審判を兼ねるトーナメント屋になっていた。13世紀末には一部の名のあるヘラルドは大貴族お抱えの常雇職となり,14世紀半ばにはフランス・イギリスにおける彼らの地位は確定し,王侯の冠婚葬祭ほか各種行事を宰領し,渉外をも担当することになる。一方,ドイツにおける彼らの地位は一貫して低く,14世紀初期でさえ宮廷芸人と同一視されていた。スカンディナヴィアでも同様であった。15世紀になるとヘラルドの国際会議が開催され,彼らのあいだに階級序列が生じた。しかし封建制度の没落とともに大貴族お抱えのヘラルドは姿を消し,王家直属の者だけが残った。例外としてスコットランドに今日もなお自家お抱えのヘラルドをもつ大貴族が3家ある。

紋章院】この施設は家紋・系譜の統制のため国王が設立した機関で,1407年フランス王シャルル6世はパリに設立,1484年イギリス王リチャード3世はロンドンに設立した。こうして15〜16世紀にかけて北欧を除き各王国は紋章院を設立した。今日もなおイギリス・ベルギー等に存続する。

【紋章学】紋章を収集・分類して系譜学とともに紋章を歴史的・図案的に体系だてて研究するもので,この学問の盛んなイギリスではヘラルドリーと呼ばれ,騎士を対象として13世紀に発生し15世紀には体系化した。元来ヘラルドの職責というような意味であったが,のちにヘラルドが騎士身分を紋章とともに登録し,確認のための“紋鑑”の編さん者となり家紋の僭用(せんよう)や身分の詐称を取り締まるようになって,学問的な体系を整えたものである。またキリスト教修道士らによって,教会にある貴族の棺の肖像彫刻についている盾紋や,寄進された什器の家紋,葬儀に用いられた忌中紋などの研究から,趣味の学問としてひろまり,ヨーロッパ各地にその同好会や紋章協会が多く設立されている。

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