●モンゴル帝国 モンゴルていこく
アジア モンゴル国 AD
13世紀,モンゴル族のチンギス=ハンとその一族を中心に,北アジア・華北・中央アジア・西アジア・南ロシアにかけて形成された国家をいう。とくに広義には,13世紀中期,帝国の統一が崩れた後にできた元朝と諸ハン国をも含めていう場合もある。12世紀のモンゴル草原には,中央部にモンゴル族があり,その東にタタール族,南にオングート族,西にナイマン族・ケレイト族,北にはメルキット族などの有力種族が割拠していた。これらの諸族は,金朝の夷を以て夷を制する政策の影響もあって相互に抗争を繰り返していた。やがて,モンゴル族の族長の家系から出たテムジンは,ケレイト族のワン=ハンと提携しつつ,他の諸種族を制圧していった。最後には,ワン=ハンとモンゴル草原の覇権をめぐって雌雄を決することになった。ついにワン=ハンを破り,さらに強敵のナイマン族・タタール族を滅ぼし,1206年にモンゴル草原の政治的統一を達成した。オノン河畔において,クリルタイと呼ばれる大集会を開き,一族や諸種族の代表者の前で,正式にハン位につき,チンギス=ハンという称号を採用した。統一後,モンゴル草原の諸種族は,千戸・百戸・十戸という十進法的組織に再編成された。その場合,チンギス=ハンの統一に協力的であった種族,たとえばオングート族のごときは,従来の族的結合を維持したまま数個の千戸に組織された。抵抗しつづけた種族,たとえばナイマン族のごときは,解体されたり他処へ移されたりした。チンギス=ハンは,千戸群のうち大多数を自らの管轄下に置いたが,ジュチ・チャガタイ・オゴタイの諸子,ジュチ=カサル・カチウン・テムゲ=オツチギンの諸弟に対しても,それぞれ数個の千戸を付与し,ジュチは西方のカザフスタンに,チャガタイはイリ河流域に,オゴタイはエミル河流域に,諸弟は東方の大興安嶺方面にそれぞれ封じた。また千戸長には,チンギス=ハンに尽してきた者や従来族長であった者などが任命された。千戸長の子弟は,チンギス=ハンのもとへ送られ,ケシクテイと呼ばれる近侍集団に加えられ,その身辺にあって仕えることになっていた。モンゴル統一後まもなく,周辺地域への征服活動が開始された。1209年にウイグルを従えたのち,モンゴル軍は1211年より華北を支配する金への攻撃を開始した。1215年には,首都燕京(今日の北京)を陥れ,金の勢力を黄河以南に退けた。当時,中央アジアのアム河流域からイランにかけて強大なホラズム国があった。そこへチンギス=ハンが通商使節を派遣したところ,ホラズム国領のオトラルで殺害され物資も奪われるという事件がおきた。そのため,金への攻略はムカリ将軍にゆだね,1219年,モンゴル軍の主力はホラズム遠征にむかうことになった。またたくまにホラズム国は瓦解した。モンゴル軍は,中央アジア・イランの諸都市を次々に占領した。モンゴル軍の一部は,イラン・コーカサスからロシアにまで入り,ロシア諸侯軍とカルカ河畔で戦った。チンギス=ハン自身は,インダス河畔より1225年にモンゴル本土に戻ったが,1227年西夏遠征の途において死去した。後継者として,第3子オゴタイが即位した。まず着手したのは,チンギス=ハンが果たさなかった金の討滅であった。1234年,金はついに滅亡し,広大な金の領土全域がモンゴル治下に編入され,モンゴルと南宋は,直接境を接することになった。従来,占領した地域について必ずしも恒常的直接的統治を企てていなかったが,このときは全国的な戸口調査を実施し,税制を定め,駐屯軍を配置するなど,華北統治に意欲を示した。なお,農耕地帯の属領としては,この華北のほかに,トルキスタンとイランがあり,それぞれ統治機関が置かれていた。オゴタイ=ハンは,草原に新しい都城カラコルムを建設し,そこを起点として領内各地の要所にいたる交通路には,一定の区間ごとに駅舎を設け,使臣に糧食・馬を提供できるようにした。金の討滅後,クリルタイが開かれ,東ヨーロッパ遠征が企てられた。ジュチの子バトゥを長とする遠征軍が編成された。モンゴル軍は,まず1236年にヴォルガ河中流域のブルガールを陥れ,その後キエフをはじめとするロシアの諸都市を襲い,1240年にハンガリー・ポーランドに侵入し,ワールシュタットでドイツ諸侯軍を破った。ブダペストなど各地を荒掠していたとき,たまたまオゴタイ=ハン死去の報が伝えられ,1241年,モンゴル軍は東方へ引き上げた。そのときバトゥは,ヴォルガ下流域のキプチャク草原に所領を設定し,河畔にサライという都城を建て,のちのキプチャク=ハン国の基礎をつくった。 モンゴル軍のハンガリーなど東ヨーロッパ侵寇は,西ヨーロッパ側に大きな衝撃を与えた。なによりもモンゴル軍が再び西進し西ヨーロッパを侵寇することを恐れた。そこで,ローマ教皇のインノケンティウス4世は,使節をモンゴル側に派遣して親書を届け,再び行動をおこさないように働きかけることにした。1245年プラノ=カルピニ修道士は,教皇の使節としてモンゴル本土へ赴き,当時即位したばかりのクユク=ハン(オゴタイの子)に会い,教皇の親書に対する返書を得て帰還した。教皇の期待したものは,再び侵寇しないという保証とキリスト教への改宗であったが,その返書は,教皇が西ヨーロッパの君主とともに伺候するように要求したものであった。1248年にクユク=ハンが死んだ後,ハン位をめぐってオゴタイ系とトゥルイ(チンギス=ハンの末子)系のあいだで争われた。ジュチ系のバトゥが後者につき,ムンゲを推した。そのことが大きな力となって1251年にムンゲはハン位につき,同時に,反対派のオゴタイ系に厳しい弾圧を加えた。また,東アジア・西アジアの未征服地を征服しようとした。1252年に次弟のフビライを中国の西南部にむかわせた。30年も抵抗をつづける高麗にも派兵した。1253年には,第3弟のフラグをイラン方面に遣わした。フラグ軍は1256年,アラムートのイスマイル派の本拠地を陥れ,1258年にはバグダードを占領しアッバース朝を倒した。さらに1259年にはシリア方面に進出し,アレッポ・ダマスクスなどを占領したが,1260年アイン=ジャルートでバイバルスのマムルーク軍に敗れ,シリアを奪われた。
ムンゲ=ハンは属領統治にも積極的で,1252年には華北の戸口調査を実施し,包銀という新税を設けた。トルキスタンについては明らかではないが,イラン方面でも同じころ人口調査を行い,今までイスラーム社会にはなかったコプチュールという人頭税を徴収しはじめた。フランス王ルイ9世は,ムンゲ即位前の1249年にモンゴル本土へ使節を派遣したことがあったが,1253年には,同王のもとからギョーム=ド=ルブルク修道士がモンゴル領へ出発した。当初,バトゥの子で,噂ではキリスト教徒のサルタクのところでの伝道を志したが認められず,モンゴル本土のムンゲ=ハンの宮廷にいたった。半年ほど滞在したのち,ルイ9世あての服属を呼びかけた書簡を託されて帰国した。同修道士の報告書は,ムンゲ=ハンの宮廷事情に詳しい。1258年ムンゲ=ハンが死ぬと,当時,鄂州(武漢)攻撃に従事していたフビライは,急拠北上して開平府(北京の北方)で一部の勢力の支持を受けてクリルタイを開き,ハン位についた。やはりムンゲ=ハンの末弟で,モンゴル本土を守っていたアリク=ブカもムンゲ系・チャガタイ系の支持を得てクリルタイを開き,ハン位についた。1264年,アリク=ブカがフビライに降るまで両派のあいだで抗争が繰り返された。ムンゲ=ハン死後の抗争を機として,これまでアジア・ヨーロッパにまたがる大版図のモンゴル帝国は解体した。フビライは即位後,華北を政治的中心地とし,中統という年号を採用したのをはじめ,中国的制度を大幅に取り入れた。のち中国の古典『易経』中より「大元」の字を選んで国号とした。西方ではジュチ系のキプチャク=ハン国が完全に独立し,フラグもイランにイル=ハン国を建てた。中央アジアでは混乱がつづいたが,オゴタイ=ハン国・チャガタイ=ハン国が形成された。
〔参考文献〕ドーソン,佐口透訳注『モンゴル帝国史』1・2,1968,平凡社
佐口透『モンゴル帝国と西洋』1970,平凡社