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●モンゴル人民共和国 モンゴルじんみんきょうわこく

アジア モンゴル国 AD 

 中央アジア東部のモンゴル高原北部に位置し,ハルハ=モンゴル族を主要構成民族とする社会主義国家。モンゴルは北のソ連邦,南の中国という2大強国に囲まれ,海にまったく出口をもたない内陸国という地理的・政治的環境をもっている。

【風土】東西2,405km,南北1,263km,面積約157万平方km。日本の約4倍の広さで,平均標高1,580mという高原の国。西部が高く東部が低い。西部はアルタイ山区(モンゴル=アルタイ山脈・ゴビ=アルタイ山脈・シールヘム山脈・ハルヒラー山脈を含む)を形成し,ここにモンゴルの最高峰モンフハイルハン山(4,362m)もある。フレムト川(オビ川支流)以外は内陸川である。中部の北半分はハンガイ−ヘンティ山区(ハンガイ山脈・ヘンテイ山脈・ホブスゴル山地を含む)を形成し,ハンガイ山脈中のオトゴン=テンゲル山(3,905m)が最高峰であり,セレンゲ水系(オルホン川トゥーラ川などを含む)をはじめ多くの川が外洋に排水される,モンゴル第2の湖ホブスゴル湖がある。東部は東部平原区(ハルハ中部・ダリガンガ準平原・東部低平地・大興安嶺からなる)を形成し,標高は低く,モンゴル最低のホフ湖(東経115°34′,北緯49°30′,標高552m)を含む。ケルレン川ハルハ川などの外洋に排水される川と並んで内陸川もかなりある。湖はブイル湖以外内陸湖である。南部を中心にゴビ区(アルタイ以南のゴビ,西部の大湖盆地などアルタイ以北のゴビ,東ゴビからなる)を形成し,完全な内陸流域である。川は少ないが湖は多い。ウブス湖(3,350平方km)はモンゴル最大の湖である。

 気候は,ステップ気候区と砂漠気候区に属し,典型的な大陸性気候であり,ウラーンバートルの1月の平均気温は−26.1℃,7月のそれは17℃である。気温の年較差が90℃,日較差が30℃にも達する場所がある。年平均気温は0℃前後である。年間降水量は,平均200〜220mm,北部山岳地帯は300mm,ゴビは100〜150mm,ゴビの砂漠帯は100mm以下である。これら降雨量の50〜60%が7〜8月に集中しているので,ほかの月は概して雨が少なく,晴天は250日以上におよぶ。3〜5月は強風がよく吹くので過ごしにくい。

 北部のホブスゴル山地の一部とヘンテイ山脈の一部にタイガがひろがりゴビ=アルタイ山脈の南に純砂漠が分布するが,そのほかはほとんど植物地理学上ユーラシア草原区に属し,広大なステップがひろがっている。このステップはゴビ=アルタイ山脈以外の山岳地帯では多く森林ステップとなり,ハンガイ山脈・ヘンテイ山脈の南斜面の裾と東部平原は純ステップとなり,東部平原を除く純ステップの南,大湖盆地は砂漠性ステップとなる。この砂漠性ステップと先述の純砂漠を合わせたものがゴビである。アルタイ・ハンガイ・ヘンテイの各山脈,ホブスゴル山地の最上部には高山帯が分布している。以上のステップと高山帯が全国土の約81%を占めているので,遊牧が古来盛んである。

 野性動物には,ユキウサギ・モウコウサギ・タルバガン(ステップ=マーモット)・クロテン・キツネ・コサック=キツネ・オオカミ・ヤマネコ・オオヤマネコ・ユキヒョウ・アナグマ・クズリ・ヒグマ・イノシシ・ノロ・シベリアジャコウジカ・アカジカ・ヘラジカ・モウコガゼル(黄羊)・コウジョウセンガゼル・サイガ・アルガリ(野生ヒツジ)・野生ヤギ・クラン(アジアノロバ)・タヒ(モウコノウマ)・野生ラクダがおり,鳥類22目370余種(約76%が渡り鳥),魚類11目70余種がいる。

【国民】人口は約169万人(1981年),人口密度は1平方km当たり1.08人,首都ウラーンバートルの人口は約44万人(1981年)である。民族構成は,ハルハ族が人口の4分の3を占め,ほかにモンゴル語系少数民族として北部に居住するブリヤート族・ダルハト族,東部のダリガンガ族・ウゼムチン族・バルガ族,西部のバヤト族・ドルベト族・トルグート族・ザハチン族・オールト族・ミャンガト族などがおり,これらで全人口の90%を占める。西部にウリャンハイ族・ホトン族・カザフ族などのチュルク語系少数民族が居住している。カザフ族は今世紀初め西方から移住してきたのであり,少数民族中人口が最も多い。公用語はハルハ方言であるが,カザク族が主要民族であるバヤンオルギー・アイマクではカザク語も公用語として認められている。ロシア人や漢族も居住している。

 人口は,革命前は男子の40%もが妻帯を禁止されたラマ僧となったことや梅毒の蔓延そして後進的な経済などのため極端に少なく,ほとんど増加せず,1918年には約65万人にすぎず,モンゴル族の衰滅の可能性が欧人などによって論じられたほどであった。革命後の経済の発展にもこの人口寡少が大きな障害となった。その後40年近くたった1956年でも85万人であったにすぎない。しかしこの年から積極的な人口増加策がとられると急増しはじめ,衛生医療の改善や経済の順調な発展も支えとなって,25年後の1981年には倍増するにいたった。増加した人口はほとんど都市に吸収され,都市人口は1956年の18万人から1981年の86万人に増え,1979年には農村人口を抜いた。都市人口の半分はウラーンバートルに集中している(1981年約44万人)。第2の都市ダルハン,第3の都市エルデネトの人口はそれぞれ5万6,400人,3万8,700人である(1981年)。農村人口は,中部以西(ゴビ部分を除く)に多い。農村人口の大半は牧畜に従事している。

 教育については,革命後の努力によって1960年までに未就学児童はなくなり,文盲率もゼロになったとされる。遊牧の移動を行う一般牧民の子供を通学させる問題は,学校付設の寄宿舎建設によって解決された。現在8年制と10年制の普通教育学校を基礎とし,その上に高等専門・技術専門学校と大学が設けられている。大学数は7,大学生数は1万人当たり126人である(1980年)。このほか毎年多数の者がソ連に留学している。

 かつて多数いたラマ僧は,革命後還俗させられ,現在は数十人いるのみである。

【歴史】主要民族であるハルハ族は15世紀に高原東部を流れるハルハ川流域で遊牧していた。16世紀なかごろにアルタン=ハンオイラート族を攻撃し,オイラートがアルタイ山脈以西に退くと,ハルハ族は居住地を西方にひろげるにいたった。1688年にジュンガル部のガルダンの攻撃を受けて敗れたのを機にその多くが清朝の保護を求めて内蒙古に逃げ,1691年に清朝に服属し,1697年に清によってガルダンが敗れると,今や清領となった故郷に戻った。ハルハの地は4部86旗に編成され,完全に清の支配下に組みこまれ,内蒙古に対し,外蒙古と称されるようになった。清はウリャスタイに定辺左副将軍,庫倫(今のウラーンバートル)に辧事大臣を駐在させ外蒙古諸部を管轄監督させたが,庫倫にはモンゴル最高の活仏ジェプツンダンパ=フトクトがいたことも加わり,ここが外蒙古の中心となるにいたった。清の対内外蒙古政策の根幹は,漢族に対抗する必要上モンゴルを同盟者として遇するというものであった。この政策が清末に変更されると,モンゴル人は清に不満を抱き独立を策するにいたった。そして1911年に辛亥革命がおこり清が倒れると,直ちに外蒙古は独立を宣し,活仏ジェプツンダンパを元首にした。だがこの独立は,やがて中国とロシアの話し合いによって自治に格下げされ,十月革命勃発後ロシアが混乱すると,1920年には中国の圧力によって自治も撤回させられた。この事態に同年,民族主義的立場から現状打破のため活動していた下級役人やラマ僧の組織が,ロシア革命の影響を受けてモンゴル人民党(のち人民革命党と改称)を結成し,これがロシア白軍のウンゲルンのモンゴルへの侵入と活動を契機としソビエト政府の支援をとりつけることに成功した。翌年3月にキャフタ郊外のデート=シベーで第1回党大会を開き,中国からの解放と同党主導のモンゴル人民の政権の樹立,そのほかの条項を盛りこんだ綱領を定め,中央委員を選出し,コミンテルン加盟を申請し,臨時人民政府を樹立し,ウンゲルンの傀儡として復活していた活仏政権に対抗する新政権を樹立した。まもなく,これより先にスフバートルなどによって組織され,ソヴィエトの援助と補助によって得た武器で装備した人民義勇軍が党・臨時人民政府の決定を受けて出撃し,ウンゲルンに追われてキャフタに集結していた中国軍を破り,キャフタを占領し,ついでキャフタに進攻してきたウンゲルンの主力軍を,ソヴィエト赤軍と協力して撃破し,ひきつづき赤軍とともに南下し,庫倫を占領し,臨時人民政府は活仏政権から権力の委譲を受け,7月11日新政府を樹立した(同日は革命記念日とされている)。翌年西部地方も赤軍の協力によって平定された。外蒙古は中国と白軍から解放されたのである。だが中国は外蒙古に対する主権をその後も主張しつづけた。

 民族解放以後の人民党の課題は社会主義をめざす革命であった。だが革命の対象たるボグド以下の王公貴族やラマ教団の勢力は強く,またそれは封建勢力であり,モンゴルはまだ資本主義社会に到達していなかった。この後者の問題は,資本主義諸関係が皆無な国でも先進国のプロレタリア階級の援助があれば資本主義的発展段階をへずに社会主義を建設できるとのレーニンのテーゼが,同年11月にモスクワを訪れたモンゴルの代表団に対しレーニン自身の口から表明されて決着がつき,やがてこの非資本主義的発展の道という考えかたは第3回人民党大会でモンゴルの歩むべき正しい路線として確立し今にいたる。

 一方強大な聖俗の封建勢力の一掃という当面のより現実的課題の達成のほうは,時間を必要とした。新政府が当初,ボグドをその権力を制限しつつも,元首の座に据えた点に象徴されているように,急進的改革はすぐには行えなかった。旧勢力は経済的に優勢であり,党にも政府にも入りこんでいて保守派として力をもっていた。それでも貴族のハムジラガ(属民)の解放,貴族の世襲の禁止,貴族・僧侶の免税特権の廃止等の政策が実施され,反改革の動きは左派の牙城たる軍とソヴィエト駐留軍(1925年に撤退)の力を背景に押さえられた。そして1924年に旧勢力の一大支柱であるボクドが没すると改革はまた一歩進んだ。すなわち活仏制をともかくやめ,共和制への移行を決め,8月の第3回党大会で上述のごとく非資本主義発展の道の路線を確立し,11月に開いた第1回国民大会(国会)で人民主権・土地の国有・政教分離等を規定した最初の憲法を採択し,首都庫倫をウラーンバートルと改称することも決めた。だが当時聖俗の旧勢力のなかには,かつての漢人商人に代わって貿易等の商業で利益をあげて産をなし,またはその知力と行政経験のゆえに行政職におさまる者が多く,その社会的・経済的力はむしろ増したとさえされ,加えて中国の国共合作にみられるコミンテルンの統一戦線戦術の実施の影響もあって,当時保守派に対する左翼急進派の態度をやわらげさせていた。その国共合作が1927年に蒋介石の反共クーデタによって破れると状況が変わった。しかもこのころ,純粋な社会主義者を養成すべく1921年に結成された革命青年同盟の成長,中産階級なき社会においては協同組合育成が必要とするレーニンの助言によって設立された中央協同組合および国営銀行の成長によって,左派の立場も強化されていた。こうした状況のもとで1928年に,コミンテルンが代表団を送りこみ,第7回党大会が開かれ,接戦の末左派が勝ち保守派が指導部からも政府からも追放され,1929年にはついに貴族からの最低額以上の財産の没収と,その貧・中牧民への分配が開始され革命は急進展した。だがこれは同時に極左政策の実施につながった。1930〜31年にも没収はつづき,富裕なラマ僧や牧民の財産も没収され,ラマ僧の還俗が強制され,小商人と職人ついには牧民一般の所有家畜にまで重税が課され,最後に牧民の集団化が強制されるにおよび牧民は怒った。家畜は殺され,その数は全土の家畜の32%にも当たる700万頭にも達し,寺院と結んだ牧民の大小の暴動が続発し,国外逃亡者が相次いだ。ここにいたり1932年党の臨時総会が開かれ極左分子が追放され,1930年の第8回党大会での結論は覆され,モンゴルはまだ社会主義建設の段階に達していないとされ,その段階にいたるための条件の確立こそ必要と規定され,極左政策は中止された。この会議はチョイバルサンがコミンテルンとソ連共産党の支援を得て開き,以後かれの党・政府における支配的地位が確立した。政策転換により当面私営経済の発展が必要とされ,そのための政策が行われたので,家畜数は急速に回復した。だがこの転換は,手段・時期の誤りとの認識からとられた一時的後退にすぎなかった。再度の挑戦は1930年代後半に開始され,鋒先は国家内国家の状態にあったラマ教団にむけられ,約10万人(全人口の11%,うち成人ラマ僧は全成人の40%を占めていた)が還俗させられた。かくて教団は潰滅し国家の直接支配下の生産人口は急増し,経済発展の一条件が整った。

 当時,日本の満州支配と内蒙古進出による東部国境での緊張の増大が,1936年ソ連と相互援助条約を結ばしめ,この条約にもとづくソ連軍のモンゴルへの進駐が逆にまた日本との緊張を高めるという状況であり,ひきつづき政治・軍事関係者,知識人・留学生がブルジョア民族主義者とか日本帝国主義の手先という理由で大量に逮捕・粛清された。同じころ行われたラマ教団への挑戦の過程で生じた反抗も多く日本と結託して企まれたとされ,武力も使われた。この時期多くの文化遺産が灰燼に帰した。1939年日本とのハルハ川の戦い(ノモンハン事件)にソ連と協力して国境を守ったことは,国内を引き締らせソ連への信頼を強めた。この状況のもとで親ソ派チョイバルサンが首相となり,1940年発布の新憲法では,将来の社会主義への移行を明文化した。これは民族解放後最大の課題であった聖俗封建勢力の排除にほぼ成功し,革命の第1段階が終了したとの認識を党・政府が有したことを意味する。逆にいえばこの時期に人民主権が実質化したということでもあった。

 翌年第二次大戦に友邦ソ連が引きこまれ,その支援に経済力をさかなければならなくなり,社会主義への移行は遅れた。だが反面大戦の存在ゆえに開催されたヤルタ会談の協定において中国が,国民投票によるモンゴル人の独立への意思の確認を条件に独立を認めることに同意したことにより,直ちに投票が行われ,全国民が独立に賛成したため,1946年ついに中国は独立を承認した。これによってモンゴルの国際的地位は確立した。一方日本が敗れて大陸から撤退したこともあり,モンゴルはようやく久しくつづいた外圧から解放されたのである。

 かくしてモンゴルは経済的発展と社会主義段階突入への諸条件をほぼ整えおえて,大戦後の時期を迎えたのである。経済的発展は1948年以来の長期経済計画によって導かれた。これはソ連の経済援助と,遅れて中華人民共和国の援助に負うところが大きく,これによって,石炭・銅・モリブデン等の鉱業(ナライハ・シャリンゴル・エルデネト市ほか),畜産加工・毛織物・建築資材・発電等の工業(ウラーンバートル市・ダルハン市ほか)の工場・コンビナートが次々に建設され,革命後あまり進歩のなかった鉱工業が顕著に発展した。また耕地が開墾され(北部中央地方が中心),従来無に等しかった農産物が穀物を中心に収量を伸ばした。農業は国営農場で行われている。一方基幹産業である牧業は,1950年代に,かつて失敗した集団化に再び挑戦し,牧民の側の自発的意思による協同組合の結成という形で押し進めて成功させた。以後牧民は基本的に協同組合の家畜を1種類預かり管理することになった。同時に計画的な草刈り(機械化が進められた)と干草の貯蔵,家畜囲いや畜舎・井戸の増設,衛生条件の改善,家畜の品種改良等が行われた(ただし家畜数はあまり増えていない)。以上の諸成果を踏まえて,1960年に新憲法が発布され,モンゴルが今や発達した社会主義国家となっており,将来共産主義社会を建設することを使命とする旨,明文化された。

 中ソ論争がおこると,中国から援助を受けていたこともあり,当初中立的立場を保ったが,1961年末にソ連支持を明らかにしたため,中国との関係は悪化した。そして1963年までに親ソ派ツェデンバルが親中国派を追放し,党・政府の実権を完全に握り,1966年に旧条約(1946年締結)に代わる友好相互協力援助条約を締結し,国内へのソ連軍の進駐を認め,ソ連との絆をいっそう強めた。一方経済は,中国からの援助が打ち切られ,第3次5カ年計画(1961〜65)は打撃を被ったが,コメコンへの加入等によって切り抜け,しだいに復調し,1980年代に鉱工業が牧農業の生産を抜く可能性もある。

【文化】モンゴル族は,古来典型的な遊牧民族であり,遊牧はその文化の根幹をなす。羊と馬を基本家畜とし,どの地方でも飼育し,それらに加えて森林ステップでは牛を,ゴビではラクダと山羊を多く飼育する。牧養は,根拠地たる冬営地から春営地,春営地から夏営地,夏営地から秋営地,秋営地から冬営地へと季節的移動(地域的に春営地と秋営地の存在は不明瞭)をしつつ行い,夏秋は家畜を太らせ,冬春はその衰弱・死亡を低く抑えることに努める。同時に,春は家畜の出産と子家畜の世話,夏は剪毛・搾乳と乳の加工,秋はフェルト製造・搾乳と乳の加工・冬営地の手入等を行う。近年,牧畜の協同組合化(ただし一定頭数・複数種類の家畜の私有は許されている),牧畜の機械化・新技術の導入そして移動を抑制し定着牧畜に近づける努力等が行われているが,伝統的遊牧が根本的に変質し定着化したとみるにはまだ早い。

 かれらは伝統的に,移動に便利な組立解体の容易なゲル(パオ。細木の骨組にフェルトを巻いた天幕)に住み,毛皮・皮の衣服(布の服もある)・帽子・靴を着用し,夏秋は乳製品,冬春は肉を主食し,乳茶を常飲し,多くの地方で夏秋に馬乳酒を愛飲し,交通・輸送に馬・牛・ラクダを使役するなど,生活一般を牧畜生産物に仰ぎ,ほか狩猟も熱心に行ってきた。しかし,欧風(とくにロシア)の文化が入り,都会も発達してきた最近では,鉄筋アパートに住み,洋装し,年中肉・パンを食べ,乳酒ならぬビールやウォッカを飲み,オートバイその他の自動車を利用する者が増え,伝統生活は変化してきた。精神文化面でも,16世紀以来チベット仏教(ラマ教)とチベット文化が信仰面から医学・文芸・芸術(絵画・音楽・演劇)にいたるまで,モンゴル古来の文化を押さえ,あるいはそれと共存してきたが,革命をへた今日,仏教は否定され,現在活動している寺院は首都にあるガンダン寺院のみという有様となり,同時に関連文化も衰え,代わってマルクス=レーニン主義のイデオロギーが,西洋化の波を伴いつつ,あらゆる精神文化を覆うようになった。物質・精神の両文化においてとくにロシアの影響が強まっている。ロシア語は,中学校で必修とされ,ソ連へ多数の者が留学するなどのため,よく解する者が多く,その語彙多数がモンゴル語に入り,その文字が1941年にモンゴル語の表記のため採用された。現在,もとのウイグル式モンゴル文字を知らぬ若者が多い。

 モンゴルの文化の変貌にもかかわらず,伝統的文化はなお基層文化としての地位を失っていない。とくに田舎では牧畜とのかかわりが強く,したがってゲル生活が一般的であり,冬春に肉,夏秋に乳製品を主食とする食生活の基本様式がよく保たれ,地域によって夏秋の馬乳酒飲用も相変わらず盛んである。民族服(デールという)を着ている者も多い。精神文化面で,旧正月・結婚式その他の儀式に驚くほど伝統的な習俗が保たれ,西欧古典音楽に比べ民族音楽のほうが好まれ,伝統のチベット絵画の影響を受けた絵画の表現・手法は西洋絵画と共存しまたそれと融合し,見事な美の世界を表現している。文学では,たとえば古来の頭韻の手法はかれらの文学表現の根幹の一つでありつづけている。スポーツの分野では男の三種の競技(競馬・弓射・相撲)が,民族の伝統競技として熱心に行われてきた。そしてその競技大会は,かつてオボー祭の余興として各地で行われていたが,現在は7月11日の革命記念日のおりに,実に盛大に行われている。

〔参考文献〕オーエン=ラティモア,磯野富士子訳『モンゴル――遊牧民と人民委員』1966,岩波書店

坂本是忠『モンゴルの政治と経済』アジア経済調査研究双書174,1969,アジア経済研究所

チョイバルサン他,田中克彦訳『モンゴル革命史』1971,未来社

磯野富士子『モンゴル革命』中公新書,1974,中央公論社

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