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●モンゴリア探検史 モンゴリアたんけんし

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 モンゴル高原の本格的な探検は,19世紀後半以後行われるようになった。その前は,語義どおりの探検はまれで,単に経由したとか使節として来たというのがふつうである。そのめぼしいものはモンゴル帝国時代に集中している。すなわち道士の長春真人はホラズム国遠征中のチンギス=ハンに招かれて行く途次,モンゴル高原を横断し,グユク=ハンモンケ=ハンのころヨーロッパの修道士カルピニとルブルクが相次いでカラコルムとその付近を訪れ,同じころ張徳輝はカラコルム付近に来た。以上の4人の旅行にはそれぞれ貴重な記録が残されている。この後1693年にイエズス会士ジェルビヨンネルチンスク条約締結交渉その他の機会にしばしばモンゴル高原を旅行し,地理的調査を行った。

 19世紀後半に始まる新時代の幕を開けたのはアメリカのパンペリーであり,1864〜65年に張家口−庫倫間の地質調査を行った。つづいてドイツのリヒトホーフェンも高原南部の地質調査を行った。1870〜73,1879,83年にプルジェワルスキーは高原中部を縦断し,南部も調査し,地理・生物等の方面に成果をあげた。こののち多数の探検が欧人とくにロシア人によって行われた。ポターニンは1876〜93年のあいだに数度ほぼ全域の地理・民族学的調査を行い,ポズドネエフも,1876〜78,1892〜93年に中部以西と東部を調査し,写本多数を収集し,仏教・民族・考古その他の方面に成果をあげた。ブルジェワルスキーの弟子のコズロフは1884年以来数回各地を調査し,1907〜09年には西夏の城址ハラ=ホトを発見,その遺物を集め,1924年にはノイン=ウラ匈奴の王墓を発掘するなどした。オブルチェフの1892〜94年のゴビ・オルドス方面の調査,グルム=グルジマイロの1903年の西部の地理・地質学的調査も注目される。ヤドリンツェフは1878〜80年にアルタイ地方を調査し,1886,89年にオルホン川流域を調査しオルホン碑文を発見した。この碑文の研究のために1890年にフィンランド隊,1891年にラドロフのオルホン探検隊(ヤドリンツェフクレメンツも参加)が派遣され,後者はそのほかオルホン川流域を調査し,カラコルムの正確な位置を確かめ,ハラバルガスをウイグル国の都城址であることを明らかにした。フィンランドからは1906〜09年にもグラーネ・マンネルハイムが派遣され,高原西部で古墳・城址等を見つけた。1922年にはフランスのリサンとテヤール=ド=シャルダン内蒙古の古生物学的調査をしオルドスで第4紀中期の動物化石と旧石器を発見した。のち大規模な探検隊が組織された。すなわちアンドルーズのアメリカ自然博物館アジア探検隊は1919,1921〜30年に広範囲に探検し,地質・古生物・動植物・考古学の調査をし,化石を多く発見した。コズロフは1924年の探検隊を拡大し,考古・土俗言語・自然地理・地質・地化学の班を編成し各々1926年まで広範囲な調査をした。ヘディンは徐炳昶とともに1927〜35年に西北科学考査団を率いた探検においてゴビを調査した。

 日本人の探検は内蒙古に集中しており,北モンゴルには1892年福島安正,1907年に竹中翠村,同年に橘瑞超・野村尚三郎,同じく同年に参謀本部の井染緑郎・日下操,1912年に本野清一郎その他の者が訪れたが本格的調査は行われなかった。一方内蒙古には1906年から5度,鳥居龍蔵・きみ子夫妻が東部地域の人類・考古・民俗等を調査し,1914年参謀本部の石光眞臣以下の蒙古旅行団が東部の軍事・交通・経済・風俗等を調査し,東亜考古学会は1930(2回),1937,39,41,44年に調査隊を派遣し,細石器・綏遠青銅器の遺跡・元の上都やオングトの遺跡その他の調査・発掘に成果をあげ,1931,35年にも地質・人類・古文化の調査隊をシリンゴル・ウランチャプに派遣した。また1933年に第一次満蒙学術調査研究団が熱河の地質・生物・人類・考古を調査し,1938年に京城帝大蒙疆学術探検隊が熱河・チャハル・シリンゴルの地理・地質・動植物・経済を調査し,1938年に京都帝大内蒙古学術調査隊が主としてチャハル・シリンゴル・ウランチャプの地理・動植物・農業等を調査し,1940,41年にゴビ砂漠探検隊は渾善達克の地理・地質・先史・動植物学の調査をした。このほか種々の機関や個人による調査は現在なおその実態を把握しかねるほど多い。

〔参考文献〕「探検と冒険3」朝日講座,1972,朝日新聞社