●森有礼 もりありのり
アジア 日本 AD1847 江戸時代
1847〜1889(弘化4〜明治22) 明治初期の外交官,のち初代文部大臣。薩摩出身。1865年(慶応2)薩摩藩留学生として,海軍測量術研究のため渡英したが,“末技”よりも国の基となる学問を学ぶことの重要性を感じて,法律学を学んだ。その後米国に渡ってキリスト教の信仰にふれ,維新の報に接して1868年(慶応4)6月帰国した。その後官途につき,一時廃刀論を主張したために免官になったりもしたが,外務少輔・清国公使・外務大輔を歴任し,1879年(明治12)英国公使として渡英した。その間,1873年(明治6)には,福沢諭吉・西周・西村茂樹らの啓蒙的知識人を結集して“明六社”を結成し,機関紙「明六雑誌」を発刊して啓蒙運動につとめた。1884年(明治17)帰国し,翌年第1次伊藤内閣の文部大臣となり,帝国大学令以下の学校令を公布して学制の改革を行った。この学校令では,帝国大学に進む系統とは別に,師範学校の系統がたてられ,師範教育が重視されたことに特徴がある。その文教政策は一般に国家主義的教育といわれているが,有礼自身は伊藤博文に“日本産西洋人”といわれたほどに西洋的で自由主義的な主張をもっていた。廃刀論,英語を国語として採用しようとしたこと,蓄妾制を非難した妻妾論などはその例である。1889年(明治22)2月11日の憲法発布の日,伊勢神宮に参拝したとき靴ごとあがり,ステッキで御簾をあげてのぞくなどして,皇室を軽んじたなどという理由で(そのような事実があったか否かは不明であるが),国粋主義者西野文太郎によって襲われ,翌日死亡した。
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