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●木綿工業 もめんこうぎょう

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 室町時代の末ごろから棉の栽培とともに綿織が盛んになった。そのころ,庶民の一般的な衣服は麻であったが,綿織の普及が広がるにつれて,綿を衣服として使用することが多くなった。しかし,綿の庶民衣料としての本格化は江戸時代に入ってからのことである。佐藤信淵の『経済要録』(1827)のなかで綿織物について〈綿布は河内をもつて上品とし,畿内諸地及び豊前小倉・伊勢松坂等古来高名あり,其他武州青梅・川越・埴生・八王子・下総結城・眞岡及び三河・尾張・芸州・阿州等,皆夥しく白木綿を出す,旦つ近来下総八日市場・上州桐生等より,聖多黙(さんとめ)を始として種々の綿布を夥しく産出するを以て土地富貴し,人民頗る蕃息(はんそく)せり,且又薩摩木綿と称するものあり,甚だ精好にして世人これを珍重せり,然れども比れ亦,琉球製にして,糸及び染法共に皇国の物と異なり,開物に志ある者は,宜しく此法を学で織出すべし〉と記している。これは江戸時代後期の綿織産地である。次に生産形態をみると,当初はいざり機であったが,生産性の高い高機が,後期に入ると専業綿織業者に採用されるようになった。本来,綿織業は農閑余業的農家の生産を基礎としていたから,自給的生産から商品生産へと変わっても小規模経営から脱却していたわけではない。いぜんとして生計補完的経営として,市場に関与している商人の支配下に置かれている場合が多かった。原料としての棉花生産も1688〜1703年(元禄)ごろ畿内から瀬戸内地方・東海地方へ広く普及した。棉作は有利な商品作物として,ことに摂津・河内・尾張・三河で幕末のころ全国生産のうち約30%を産したという。これらの製品は実綿・繰綿・綿布などの商品となって大坂に集荷され,商人の手をへて全国の市場に販売された。棉作の普及とともに,綿織も農間の商品生産として広く行われて綿織生産拡大の基盤となっていった。これを背景として前述のように麻から木綿へと庶民衣料の変革がひきおこされた。幕末ごろには,従来の小商品生産段階から発展してマニュファクチュアと呼ばれる生産の形態をとる機業が,尾西・泉南・足利・桐生などで部分的に現れてきた。安政の通商条約以降,外国から安価で品質の一定した機械製綿糸が導入されるに従って国内産の手紡糸は衰退し,棉作農家は打撃を受けた。1887年(明治20)ごろには機械紡績の勃興とともに原料綿は,外国に依存し,国内の綿作農家は姿を消した。また,この明治20年代は紡績業の基礎が確立した時期で,鐘淵・天満・浪華・平野・摂津・日本などの会社をはじめ,1887年には19の工場があったが,1894年(明治27)には45となり錘数も7万6,000錘から53万錘に,綿糸生産高も1万3,000梱より29万2,000梱に増加した。さらに織布を兼営する工場も現れ,広幅物綿布の機械制生産も急速に成長し,日清戦争ののちには,中国・朝鮮に市場を拡大していった。絹業の場合には生糸(原料)輸出によって成長したが,綿業の場合は原料綿を輸入して製品化して輸出する構造をとって日本資本主義発展の旗手となっていった。また,在来の機業地を中心として発達した織物業は,明治以後も中小機業として小量多種多様の商品を生産し,おもに国内市場で和服を主とする生産体制を維持してきたから,紡績の兼営織布の外国市場向,小種大量生産と競合することはなく,共存して今日にいたっている。明治末年ごろから在来機業地の中小企業においても力織機の採用が増加し,手織機は漸次に減少して中小機業における製織業の機械化が進行した。第一次世界大戦によって大紡績工場の兼営織布部門は急速に成長し,イギリスと並んで世界市場を制していた。なお,兼営織布業は,明治15年紡績連合会として生まれた大日本紡績連合会(明治35年の改称名)の統制下にあり,在来の中小機業は日本綿織物工業組合連合会と日本輸出綿織物同業組合連合会の統制下に置かれていた。第二次世界大戦中,綿織物生産は軍需品中心生産のなかで壊滅的な打撃を受けた。大紡績の被害は深刻で,世界一といわれた「東洋紡績」の綿紡設備は盛んなときの一割強にまで低下していた。技術の伝統をもっていた中小機業における復活は「ガチャマン」景気という変則的経済状況から戦後が始まった。1950年の朝鮮動乱ブームで経済成長を遂げた日本資本主義は「神風」による糸ヘンブームをよび,綿布は東南アジアに進出し,再び世界の首位にのし上った。1951年の法人所得のベストテンはすべて繊維メーカーで占め,糸ヘン景気を誇っている。その後合成繊維の研究が進み,新製品の出現とともに綿織物工業も微妙な影響を受けるようになっている。