●以仁王 もちひとおう
アジア 日本 AD1151 平安時代
1151〜1180(仁平1〜治承4)後白河天皇の第2皇子,母は藤原季成の女成子。邸宅が三条高倉にあったことから,三条宮・高倉宮とも称された。幼少のころから才能に優れ,学問・詩歌に秀でていたが,親王宣下が得られず,不遇をかこっていた。その後,八条院猶子となった。平氏から人心が離れつつあることを察知し,1180年(治承4)4月源頼政のすすめによって,自ら最勝王と称し,平氏追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に発し,挙兵をうながした。しかしただちに平氏側に露顕したため,後白河上皇は以仁王を土佐国に配流しようとしたが,平氏は軍兵をさしむけて,三条高倉邸を囲んだ。以仁王は頼政とともに園城寺に逃れ,さらに奈良に逃れようとしたが,平氏の軍兵に追撃され,宇治平等院で合戦の末,光明山鳥居の前で討ち取られた。没年30歳。このようにして平氏討伐の計画は失敗に終わったが,以仁王の令旨を受け取った各地の源氏が挙兵し,平氏滅亡の起爆剤となり,歴史転換の役割を果たした。
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