●百舌鳥古墳群 もずこふんぐん
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大阪府堺市に所在する百余基で形成される古墳群で,藤井寺市・羽曳野市に所在する古市古墳群とともに,わが国の巨大な前方後円墳で群形成する代表的古墳群である。古墳群は東西約4km,南北約4kmのほぼ正方形に近い範囲に分布し,大阪湾に面する台地上一帯地域に所在する。現在の実数は107基の大小古墳が確認されるが,その内容は前方後円墳14基,前方後円とみられるもの1基,帆立貝式古墳22基,帆立貝式と考えられるもの6基,方形墳5基,円墳32基,円墳と考えられるもの22基,墳形不明な古墳4基である。このうちで現存する古墳は半壊を含めて48基あり,ほぼ半数弱しか存在しないが,前方後円墳が帆立貝式古墳の半数であることは注目される。円墳の多いことは当然としても,方墳が少なく帆立貝式古墳が約6倍と多数を占めることは,百舌鳥古墳群の形成期の中心が西暦5世紀でもやや後半期にあることを暗示しているのかもしれない。古墳群の形成過程を巨視的にみると,群中で西南の南方部から始まり,逆時計まわりで構成されていると思われる。たとえば発掘調査された古墳は少なく,簡単なトレンチ調査や遺物出土の古記録などを含めて25基を数えるにすぎない。その結果によると,最も古い時期のものとしては石津町の乳の岡(ちのおか)古墳で,全長155mの前方後円墳に2個の組み合わせ式石棺を内部主体に,多くの石製品の出土(鍬形石・車輪石など)で知られ,築造時期は4世紀末から5世紀初頭ごろと考えられる。ついで百舌鳥大塚山古墳(全長159m)の多量の鉄製武器具の出土,履中陵(百舌鳥陵山,石津丘古墳)の陪塚とみられる七観山古墳(径50mの円墳)や七観音古墳(径23mの円墳)出土の甲冑や琴柱形石製品,御廟山古墳の陪塚カトンボ山古墳(径24mの円墳)出土の多量の滑石製品,イタスケ古墳(全長146mの前方後円墳)出土の衝角付冑埴輪などは5世紀前半から中葉の古墳である。とくにイタスケ出土の衝角付冑埴輪は,非常に立派なもので堺市文化財保護のシンボルマークである。仁徳陵(大山古墳)はわが国最大の前方後円墳で,三重濠をもち墳丘全長は486mもある。1872年(明治5)4月15日,堺県令が鳥の糞を清掃する許可を得て〈大ナル盤石ノ傍ニ小石等有之,取払候処,……甲冑并剣其外陶器類,且広大ノ石櫃有之……〉とあり,長持形石棺に金銅装鋲留眉庇付冑(びょうどめまびさしつきかぶと)と短甲・ガラス器などが出土した。これらの遺物は埋戻されたが,ボストン美術館に伝仁徳陵出土の金銅環頭大刀と細線式獣帯鏡などが保管されている。この鏡と類似するものが百済武寧王陵から出土し,この王陵が誌石銘文により520年の確実な古墳であるところより,仁徳陵を6世紀前半にまで下げる説もある。反正陵(田出井山古墳,たでいやまこふん)は南々西面する全長148mの前方後円墳である。この規模は百舌鳥古墳群中では第7位(大山・石津丘・にさんざい・御廟山・大塚山・乳の岡古墳に次ぐ)で,前方部は発達して造り出すも西側のみで前方部寄りにみられる。近年の堺市教育委員会の周辺調査で出土した埴輪片は,6世紀前半ごろのものであり,百舌鳥古墳群中では最も遅れた時期の古墳である。古墳群中第3位の規模をもつにさんざい古墳は,全長290mの二重濠を有し西々北面する大型前方後円墳である。群中では最も東南端で,百済谷(くだらだに)の奥深いところに位置し,田出井山(反正陵)古墳より古く,石津丘(履中陵)より後出のものであり,大山(仁徳陵)より前後する時期であろう。にさんざいを「倭の五王」の武王説を唱える人,大山古墳を武王と考える人などあり,石津丘・大山・にさんざい古墳の3基の前方後円墳は,古市古墳群の仲津山(仲津姫陵)や誉田山(こんだやま,応神陵)古墳の2基を含めて,「倭の五王」の墓と考えてみることも無意味ではない。百舌鳥の巨大古墳はわが国5世紀史を解明する上に,貴重な文化財といえるのである。〔参考文献〕森浩一編『大阪府史』第1巻,1978,
中井正弘『伝仁徳陵と百舌鳥古墳群』1981,摂河泉文庫
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