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●モザイク

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彩色の石・ガラスなどの小片をちりばめて模様や画像を構成し、漆喰(セメント)で建築物や工芸品に膠着させた表面装飾。古くは、シュメール人やエジプト人が工芸品の装飾として用いたが、古代ギリシアからローマ帝政時代後期まで、モザイクのほとんどは、建築内部の床面を飾る舗床モザイクとして制作された。舗床モザイクの技術は、ギリシア北部(オリュントス・ペラ)からペロポンネソス・シチリアなどに伝わり、ヘレニズム時代からローマ時代にかけて著しい発達を遂げた。ヘレニズム期には、大理石やガラスの小細片(テッセラ)がしっかり接合され、絵画を模したものがつくられた。当時の作品では、アレクサンドリア・ペルガモンに優れた作例がみられ、モザイク師ソソンの図柄はローマ時代にも模倣された。舗床モザイクは、ローマ時代に最もめざましい開花をみせ、ローマ帝国全域に普及し、2世紀からは画像入りの大きな場面が床面を飾るようになり、また3世紀には、白・緑・赤・黒などの多色の大理石で、多くは画像を表現したモザイクが流行しはじめた。ローマ市を初めオスティア・ポンペイ・シチリア・北アフリカなどの各地に美しい作例が発見され、ポンペイのキケロの別荘出土の「旅回りの楽師たち」(前2世紀後半)・「ナイル河の氾濫」(前1世紀)・ティボゥリのハドリアヌス帝別荘出土の「鳩のモザイク」(2世紀前半)、4世紀前半シチリアの大土地所有者の別荘の約5,000平方mの床面に狩猟・神話の情景・風俗などさまざまな主題を表現したモザイクなどが残されている。キリスト教の勝利に伴い、4世紀初めから壁面モザイクが制作され、舗床モザイクは二義的なものとなった。材料にも焼きつけた色ガラスが用いられ、大理石と異なり金色を含む強烈で豊かな色彩をもったモザイクが教会建築の壁面を飾った。ローマ市のサンタ=コンスタンツァ聖堂の周廊の穹窿(ボールト)をおおうモザイクは、ブドウ唐草と幾何学的図柄が異教的な像を囲んでいる。また、聖マリア=マジォーレ聖堂身廊壁面の「ロトとアブラハムの別離」(430年ごろ)は旧来の手法を踏襲しながら、ローマの壁画の平坦さを克服し、超自然的な彼岸の図を表している。モザイクの技法が高度に発達したのがビザンツ帝国であり、ラヴェンナの聖ビターレ聖堂の祭壇壁面の廷臣・聖職者・侍女を伴った皇帝ユスティニアヌスと皇妃テオドラのモザイク(547ごろ)、テッサロニケの聖デメトリオス教会内陣の聖デメトリオスを描いたモザイクは、ビザンツ最初の黄金時代の作品である。しかし聖像破壊令と、その後の聖像論争のためビザンツのモザイクは衰退するが、9世紀後半から再び黄金時代を迎え、第1次黄金時代に強調された永遠性と神性に、古典古代の人間感情と肉体的優雅が加えられている。作例には、聖ソフィア寺院2階の南翼廊のコンスタンティヌス9世と皇妃ゾエを写したモザイク(10世紀末)、デルフィの聖ルーカス教会の金色をふんだんに使った受胎・告知・キリスト生誕などを表現したモザイク(10世紀末)、ギリシア=アトスのダフニ修道院の「キリストの礫刑」(11世紀末)、シチリアのチェファル大聖堂の「栄光のキリスト」(1148ごろ)などが有名。西欧では中世前期に衰退をたどったが、初期キリスト教美術の構図を受け継ぎ、ビザンツの影響のもとに復興。ビザンツ帝国の滅亡後は、ヴェネツィアの工房がモザイクの伝統を維持したが、ルネサンス時代になると、新しい絵画法の発達によりモザイクの需要は限られ、ヴェネツィアやローマの工房の活動もほとんどこれらの都市に限定された。

〔参考文献〕H.フォン・ハイニツェ、長谷川博隆訳『ローマ美術』1980、グラフィック社

『ローマとその世界帝国』(新潮美術館5)1980、新潮社

I.フッター、越宏一訳『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』1980、グラフィック社