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●毛沢東 もうたくとう

アジア 中華人民共和国 AD1893 清

 1893〜1976 中国革命・中国共産党の指導者。湖南省湘潭県詔山出身。1911年の辛亥革命で湖南省新軍に参加したのち,湖南第1師範学校に入り新民学会を組織。1919年,五・四運動の影響を受け湖南学生連合会・『湘江評論』を主宰し,反軍閥運動を進めた。〈20年夏頃からマルクス主義者となり〉(エドガー=スノー『中国の赤い星』),1921年の中国共産党創立大会に参加。1923年,中共3全大会中央委員。1924年,国共合作下の国民党1全大会中央委員候補。1925年の五・三○運動以後,農民協会の組織化に専念し,1927年に農民の革命性を高く評価した『湖南農民運動視察報告』発表。国共分裂後の1927年9月,秋収蜂起を指導したが,都市権力の奪取を第1とする中共中央の方針に反発して井崗山へ退却し革命根拠地を築く。合流した朱徳軍と紅軍第4軍を組織し,中共中央から異端視されながらも土地革命を進めソヴィエト区を拡大した。1931年,江西省瑞金で成立した中華ソヴィエト共和国臨時政府の主席となるが,党内指導権を握ったのはソヴィエト区に対する蒋介石の包囲網を脱した長征の過程においてであった。最近発見された陳雲文書によると,1935年1月の遵義会議終了後,博古(秦邦憲)の党と軍に対する実権が剥奪され,同年3月,周恩来・王稼祥と軍事指揮をとる「3人グループ」を組織してから毛は党と軍の実権を握った(『瞭望』1984年10期)。1935年の「八・一宣言」以後,闘争の重点を抗日民族統一戦線の結成に移す。1936年末の西安事件,1937年の日中戦争の勃発をへて,第2次国共合作が実現した。抗日戦争期,毛は思想的に著しい発展をとげ,『矛盾論』『実践論』『持久戦論』『新民主主義論』『延安文芸講話』などを続々と発表した。これら毛の革命戦略・思想が党内に浸透したのが1942〜43年の延安整風運動である。以後,王明陳紹禹)・博古ら「留ソ派」の影響力は弱まり毛の党内指導権が確立した。1945年の中共7全大会で中央委員会主席となり毛の指導権は正式に承認され,マルクス=レーニン主義とともに毛沢東思想が党の指導思想として党規約に明記された。同大会の毛の政治報告「連合政府論」は民主諸党派による連合政府の樹立と米ソ協調外交を示したが,国共内戦と米ソ冷戦が進むなか「連合政府論」はプロレタリア独裁を強調する「人民民主独裁論」に変質し,外交的には「向ソ一辺倒」が打ち出された。1949年10月,中華人民共和国の成立を宣言した毛は,1950年2月に中ソ友好相互援助条約を結びソ連型社会主義戦略を選択した。しかし1955年の農業合作化,1956年のソ連共産党20回大会のスターリン批判,1957年の「百花斉放・百家争鳴」運動反右派闘争などをへて,毛は新たな中国型社会主義戦略を志向しはじめ,1959年,「大躍進」・人民公社化運動の急進路線を打ち出した。1962年の中共8期10中全会では,社会主義社会における階級と階級闘争の存在を指摘し,国内的には社会主義教育運動,国際的には中ソ論争を進め,1966年に「文化大革命」を発動した。1969年の中共9全大会で毛のカリスマ的リーダーシップは頂点に達したが,肉体的衰えとともに指導力も弱まり,林彪・「四人組」の台頭を許すことになった。1981年の中共11期6中全会で採択された「建国以来の若干の歴史問題に関する決議」は毛の“晩年の誤り”を総括し,1956年の中共8全大会以後10年間,〈社会主義社会の階級闘争に関する理論と実践の面で,毛沢東同志の誤りはますますひどくなった〉と述べ,〈「文化大革命」というこの全局的な,長期にわたる左よりの重大な誤りについては,毛沢東同志におもな責任がある〉と断定した。しかし〈その全生涯からみると,中国革命に対する功績は過ちをはかるかにしのいでいる。毛沢東同志にあっては,功績が第1義的で,誤りは第2義的である〉という評価が今日毛に対して下されている。

〔参考文献〕スチュアート=シュラム『毛沢東』1967,紀伊国屋書店

ジェローム=チェン『毛沢東』1969,筑摩書房

徳田教之『毛沢東主義の政治力学』慶応通信,1977

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