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●蒙古至上主義 もうこしじょうしゅぎ

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 元(1271〜1368)が征服王朝として,中国支配にさいして採用した蒙古中心主義(モンゴル人第1主義)をさしていう。金を滅ぼして華北を領有したモンゴル帝国は,土着の漢人豪族を利用しながらこれを統治した。フビライ=ハン(世祖,在位1260〜94,中統1〜至元31)の治世では,中国の伝統的な州・県制を基盤とする皇帝中心の集権政治へと脱皮しながらも,異民族政権としての独得な政治的配慮がなされていた。世祖は都を大都(北京)に移し,国号を中国風に元と称し(1271),ついで南宋を滅ぼし,異民族王朝として初めて中国全土を支配した。さらに日本・ヴェトナム・ジャワ遠征を試みたが失敗した。元は征服王朝として,少数の蒙古人をもって,広大で多数の異質で高度の文化をもつ中国民族を支配するために,軍事・政治をはじめ経済・文化などあらゆる面で蒙古民族中心主義を強力におしすすめた。そのために,支配階級には蒙古人のほか,準蒙古人として色目人(多くの種族の意味で,中央アジアや西アジアの出身者をさす)を第1階級に置き,被支配者として漢人(北人ともあり,契丹人・女真人および金の支配下の漢族をいう)と南人(蛮子とも記され,南宋治下の遺民をいう)とした。当時の蒙古・色目人はせいぜい40万〜50万戸で,漢人は200万戸,南人は1,000万戸を数える人口比重と考えられることからして,厳重な種族別身分制度からなる統治体制が必要であった。最も力をいれた軍事では,皇帝を守衛する軍として怯薛歹(けしくてい,宮廷の番直・宿直)をつくり,蒙古人・色目人の子弟を集めて皇帝の直属とした。行政にあっても,中央政府の要職は蒙古人・色目人がほとんど独占し,〈江南の高官に漢語を知るものなし〉といわれたほど漢族の進出をはばんだ。地方行政機関の路・府・州・県でも,蒙古・色目人を長とする皇帝の代理官であるダルガチ(監督官)を派遺して監督政治を行った。経済・文化では,イスラームの商業事情や文化に明るい色目人が要職に重用された。文化面では,ラマ教の高僧パスパ(1235ごろ〜80)が国師として招かれ,チベット文字を基礎に蒙古国字(蒙古新字・パスパ文字)を作成し,公文書に用いるなど,中国文化に圧倒されないだけの民族の自覚を誇示した。伝統的な官僚選抜試験制度(官吏登用法)である科挙制は世祖のときに採用され,仁宗のとき実施されたが不徹底であった。しかも進士の採用も蒙古・色目人に厚く,漢人・南人には非常に薄く,とくに南人出身は差別冷遇された。一般に官吏の多くは骨胥(小役人,書記の類をいう)として採用され,ほとんどが下級職として終わった。科挙制の軽視から,例外を除く士大夫階級,とくに儒教的読書人は不満が強かった。当時の諺として,〈一官・二吏・三僧・四道・五医・六工・七猟・八農(農民)・九儒・十丐〉とされ,儒者は「丐(かい)」(乞食)を除き最下位と卑下するほどの打撃を受けた。しかし支配者である蒙古人の数は少なく,中国社会の基盤は前代とかわらぬ大土地所有制で,土地は佃戸(一般には小作人)によって耕やされていた。蒙古人は遊牧民であるので中国の農耕社会に定着することができず,ただ強大な武力や徴税を背景にして中国社会に寄生していた。世祖の死後,元朝内部の皇位継承争いがつづき,ぜいたくな宮廷貴族の生活やラマ教への盲信による莫大な経費で財政は窮乏した。その対策として実施した元の紙幣である交鈔の乱発や専売制度の強化は物価騰貴を激しくし,社会不安を高めて各地に暴動をおこした。なかでも農民を主体とする紅巾の乱(1351〜66,至正11〜26,白蓮教徒の乱ともいう)を機に,江南各地に群雄がおこり,ついに農民出身の朱元璋(1328〜98,致和・天順・天暦1〜洪武31,明の太祖)によって大都を奪われ,モンゴル高原に追われて(北元),1368年元の中国支配は終わった。

〔参考文献〕箭内亙「元代社会の三階級」『蒙古史研究』

羽田亨「元朝の漢文明に対する態度」『羽田博士史学論文集』上