50音順    検 索

●喪 も

アジア 日本 AD 

 死者が出ると,その家族は一定期間,村人から隔離された生活をする。これを喪と呼ぶ。その慎しみの期間を喪中とか,忌中などと呼ぶ。また,喪は魂呼びの儀礼から入るものともいう。もとより,以前には,死の確認が困難で,息を引き取っても,家の棟に上がって,大きな声で死者の名を呼び,蘇生をはかることができると考えられていた。しかし,魂を呼び返す努力も,効がなければ,家族は喪に服することになる。

【イミヤカド】伊豆諸島では,明治初期まで,死者の子孫が墓地に忌み屋をつくり,50日間の長期にわたって別火生活をした。三宅島では,実の親が死ぬと,50日間のユミ(忌)に服する。その場所は,今日では親の住んでいた隠居屋となっているが,かつては,そのために特別につくったイミヤカド(ユミゴヤ)が充てられた。その期間,厳重なクイノキ(食い抜き,つまり別火生活)に入った。いったん,イミヤカド(ユミゴヤ)に入って親の喪に服すると,外界との交際は完全に止められる。ひたすら親の冥福を祈る忌み籠りの精進によって,目はくぼみ,ヒゲはぼうぼうと生え,衣服はぼろぼろに破れ,俊寛僧都の姿も,かくやと思われるほどであったという。また,対馬下島三峯村木坂では,以前には,遺族は喪屋を野辺につくって住む風があり,これを山上がりと称していた。忌み明けて家に帰るまで,忌中の者は村に帰るのを禁じられ,そこへの通路を避路(よけじ)ケ原といっていた。これらの事例は,かつて喪屋を建てて,近親者が忌み籠った古代の喪屋の生活を彷佛とさせるものといってよい。

【別火の生活】火は忌を受け易く,喪家の火は死穢のために穢れているとされた。したがって,喪家の火で煮たり,焼いたりしたものを食うと,ヒガマジルとか,ヒニマジル・ブクニマジルともいう。また,喪家の火をシニビといって恐れる気持ちが強く,喪家では茶も飲まず,煙草もシニビを用いず,自分のマッチを使うよう心掛けたものである。したがって,忌のかかる範囲を,ヒガカリとかヒヲカブルなどと表現されるのも,うなずけよう。

【服喪期間】服喪の期間は,死者との血縁の濃淡により,また家の制度上の地位によって,あるいは時代によって長短の差がある。養老令・大宝令の昔から,江戸幕府の服忌令にいたるまで,親等別の規定が,こまかく明示されている。現行の民俗のそれは,おそらく,これらの影響もあり,さらには,仏教の影響を受けながら推移してきたものと思われる。また,服喪の期間は,忌と服とに分かれるという。忌は,ことに死の忌の重い期間で,通常,中陰の間と考えられている。この間にも,アラビアケとて,5日目または7日目が,一つの区切りとされている。その後,35日または49日が忌み明けで,重い忌が明ける。これ以後は服の期間で,中陰の間に比して軽い忌に服することになる。なお,島根県簸川郡北浜村(現,平田市)では,近親の女が,49日の忌み明けまで,髪に白布を結んでおく。これをキチテヌグイ(忌中手拭い)という。また,伊豆の三宅島では,親が死ぬと,49日間は忌がかかっているので,その子供は晒木綿を三角に切ったユミを晩げにだけかぶって墓参りをした。このユミをかぶるのは女で,男の場合は,晒木綿を手拭いのように細く折って頭に巻き,晩げに墓参りをした。これらの事例は,かつて服喪期間中に,喪服を着用していた名残りかと推測される。もともと,喪服は,服喪期間中着用していたので,喪が終わる(忌み明け)のを除服といった。

〔参考文献〕井之口章次『日本の葬式』1965

桜井徳太郎『日本民間信仰論』1958

柳田国男『葬送習俗語彙』1975

国学院大学民俗学研究会『30年度民俗採訪』1956

『綜合日本民俗語彙』1,1955

佐藤米司「生と死」竹田旦編『社会伝承』日本民俗学講座2,1976