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●メンシェヴィキ

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 1903年ロシア社会民主労働党第2回大会での同党の分裂に際し,マルトフに率いられた一派。少数派の意で反対派につけられたもの。

ロシア社会民主労働党の分裂】1903年の同党分裂の原因は,党規の第1条,いかなる人物を党員とみなすべきかの党の組織問題に関する意見の相違からであった。メンシェヴィキは党の構成中に党機関の決議に服する義務のない自由な団体や個人が存在すべきであるとして,すべての罷業者・示威運動者・知識人にも入党を認めるよう主張し,党の一定の機関に属し党にその指導命令に服従して活動する者のみを党員とすべしというレーニン派ボリシェヴィキの厳格な解釈に反対した。メンシェヴィキは,近く期待されるロシア革命の性質はどうしても小ブルジョワ的性質を帯びるものであって,後進国ロシアでの社会主義革命は問題になりえないとする立場をとった。そのため,小ブルジョワ的知識人や学生などを広く党員として把握しなければ党の発展はむずかしいとした。マルトフ・プレハーノフ・ポトレソフ・ダン・アクセリロード・ザスーリチらが有名。

二月革命以前】1905年のロシア第1次革命では,メンシェヴィキはこの革命におけるプロレタリアートの役割は認めるが,その主導権はブルジョワジーにありとし,これとの協調政策を主張,また,農民の革命的役割を否定した。1907年以後の反動期には,ロシアにおける革命の到来はなお遠いとして,古い地下的革命運動を廃し,非合法的な運動を清算して合法的に議会において言論・集会・組合の自由を獲得すべしという“清算主義”“解党主義”を唱え,ボリシェヴィキと対立,1907年4月のロンドン大会において両派は徹底的に分裂した。1912年1月の第6回全ロシア党評議会で,両派は完全に別個の党を形成した。第一次世界大戦が始まると,メンシェヴィキは二つの派に分かれた。“祖国防衛派”と“国際派”である。前者にはプレハーノフ・ポトレソフらが属し,後者にはマルトフ・ダンらが属した。前者は祖国防衛・愛国主義を唱えたのに対し,後者は即時講和による反戦主義を唱え,ツィンメルヴァルト=キーンタール反戦会議にも出席したが,ボリシェヴィキの“帝国主義戦争を内乱へ”の主張とは一線を画した。

【1917年革命とメンシェヴィキ】二月革命がおこると,メンシェヴィキの主流はブルジョワジーとの積極的協力を唱える統一派(プレハーノフら)と,ソヴィエトを拠点とする中央派(チヘイジェ・ツェレテリら)とに分かれたが,この両派は臨時政府を支持し,七月事件(ロシア)以後はその連立政権に参加した。一方,マルトフらの国際派は他のメンシェヴィキよりもボリシェヴィキに近い政策をとり,一時はボリシェヴィキ派と合同の交渉が行われ,また新聞「ノーヴァヤジーズニ」(新生活)を通じてボリシェヴィキと結合し,十月革命では,その一部は武装蜂起に参加した。しかし,メンシェヴィキの大部分はボリシェヴィキ政権反対の立場をとり,10月25日の第2回ソヴィエト大会では,開会直後退場し革命の主流からまったく離れた。

【十月革命(ロシア暦)後】1917年12月12日に行われた憲法制定議会選挙では,その得票率において社会革命党が40.4%,ボリシェヴィキが24%を得たのに対し,メンシェヴィキはわずか2.7%を得たにしかすぎず,立憲民主党の4.7%にもおよばなかった。翌1918年1月のボリシェヴィキによる議会の解散,同党の単独支配の確立後は,メンシェヴィキの多くは亡命し,外国にあって反ボリシェビキ宣伝をつづけた。メンシェヴィキのうち積極派と呼ばれる一派は,国内戦時代,反革命運動を展開したが,国際派の一部はボリシェヴィキに同調,1919年には彼らと合同した。しかし,そのなかのマルトフ派は1918年ボリシェヴィキロシア社会民主労働党の名称を捨てた以後も,その党籍を保持し,彼らと衝突,1921年メンシェヴィキ本部のあるベルリンへ去った。

〔参考文献〕マルトフ,加藤一郎訳『ロシア社会民主党史』1976,新泉社