●綿花栽培 めんかさいばい
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【起源】木綿は平安時代の799年(延暦18),三河国に伝来したといわれ,その後1492〜1520年(明応・永正年間)再び綿種子が伝わり,三河などで栽培された。16世紀後半から,畿内各地で栽培が始まり,1586年(天正14)には大和国高市郡四条村,1603年(慶長8)同郡根成柿村で,それぞれ綿作の記事がみられる。和泉では,慶長年間に大鳥郡豊田村の小谷家の記録や,日根郡中庄村で綿の栽培を物語る史料がでている。以後,17世紀末まで,綿花栽培は西日本を中心として,摂津・河内・和泉・播磨・備後などに集中し,主産地を形成したが,18世紀に入り畿内と瀬戸内海沿岸とが,しだいに衰退にむかい,東海・関東・山陰の一部が綿作地に加わり,18世紀末からその生産を増大させ,明治中期ごろまでつづいた。1876〜82年(明治9〜15)の平均では,河内が全国生産数量の約12%で全国の首位,ついで,摂津と三河とが,それぞれ約8%で,これにつぎ,尾張・伯耆の順位にあり,他方,1877年(明治10)で実綿百万斤以上の生産高をもつ郡は,河内渋川・若江,和泉大鳥,摂津西成・東成・武庫,三河碧海・蟠豆・尾張春日井・中島・愛知などや備中浅口などの諸郡に及んでいる。【綿圃要務と栽培方法】綿花栽培については,1833年(天保4)に刊行の大蔵永常の『綿圃要務』に集大成されている。彼は西国各地の実地見聞をかさね,郷里日田から大坂に出て,苗木や農具の販売のため和泉・摂津・河内など畿内から,播州姫路・備中玉島・備後福山などの綿作地を旅行して農民に接し,綿作法を学んでいる。彼が力点をおき叙述したのは,気候や土壌などの自然的条件やその収穫高を左右するものとして,品種や播種期・播種量,施肥・綿木の仕立て方など,綿作技術の地域による差異と収穫高との関係の検討である。地域的には,河内・大和・和泉大鳥郡・播磨姫路・備中玉島・早島・備後福山の実例を紹介している。綿の品種改良もすすみ,元禄期の『農業全書』には7種にすぎなかったのが,天保期にはそのほか23種を新しく指摘しており,河内ぼたん・和泉わた・阿波・土佐わたなど地域の地名を冠した新品種を紹介している。なお,当時の各地域の文書からは,朝鮮・小朝鮮・田辺土佐・絹綿などの品種があげられる。幕末期には品種改良が盛んなことを物語る。
次にその栽培方法の大略にふれてみよう。4月中に刈り取る麦の畝のあいだに,1昼夜水につけた綿の種子をまき,4〜5日で発芽した苗のこみ入ったところを間引く。その後,3度にわたり,干鰯・油粕・綿実粕などの金肥を施し除草を行う。種を蒔いてから100日ほどで,綿の実が割れ,白い綿がふく。毎日綿圃をめぐり,綿の実をつみとり晴天の日に干し上げるのである。綿の肥料代は,稲作の少なくとも2〜3倍を必要とした。1772年(安永1)河内丹南郡東野村では,稲作1反当たり銀60匁ぐらいの干鰯・油粕を入れたが,綿作は銀90〜120匁の肥料を使い,同年茱萸木(ぐみのき)新田では,稲作1反当たり菜種粕・焼酎粕・干鰯を銀30〜40匁ほど入れたが,綿作には干鰯・綿実粕・菜種粕を70〜90匁ほど施している。これらの作づけの結果,反当収穫量は何程になるか。河内の農村につきみてみたい。若江郡八尾木村(やおぎむら)では精農家の木下家が,1842年(天保13)では反収174斤,1851年(嘉永4)では220斤,同郡小若江村武村家が1834年(天保5)で200斤,丹南郡北野田村の井上家は1871年(明治4)には156斤である。和泉国泉郡助松村では,18世紀の平均収穫量が116〜123斤であった。
【木綿栽培と摂津・河内・和泉】綿作につき,先進的であった3地域における状況を述べたい。この地域の綿作には田方綿作と畑方綿作とがあるが,前者はすぐれて畿内の先進性を特色づける。田方綿作の実際は,さらに,二つの形態に分かれる。『地方落穂集』などに記される木綿の輪作農法であり,他方は『綿圃要務』により知られる半田農法である。輪作農法は同一の田で稲・木綿との隔年作であるため,稲作の生産構造を残すことになる。近世に入り,この地域では溜池井堰の修築工事が広く実施され,田畑の生産条件が安定して,日損地が減少するなかで,和泉や南河内地域の溜池井水灌漑地区を中心に,輸作農法が広く展開した。二毛作田に表作は稲あるいは綿を,裏作は菜種と綿とを交互する。半田農法については半田(掻揚田,かきあげだ)とは中河内の旧渋川・若江両郡を中心とした特有の耕地形態で,『綿圃要務』には〈半田と号して盤に香を盛たるが如く,壱畦ハ田,壱畦ハ畑にして土をかき揚たる方に綿を作り,低き方に稲を作るを,掻揚田ともいひて,其田の処に水溜れども,畑ハよく乾き,殊に田土を揚たるものなれバ土肥て外の肥し半分入て綿よく出来,水田の稲も一段見事に出来るなり〉と記されている。低湿水損場であると同時に,旱損場でもある地域的条件に即応したもので,用水がゆきとどかぬため,すべての耕地を田にして稲作を行うことが困難であり,一方,排水不良のため,田に綿と稲との隔年栽培を行うことも不可能であるため,考案されたものであろう。そのほか,大坂三郷近郊の農村では,畑作地のため,野菜や豆類のほか,残り全部が綿作であった。さて,輪作地帯では,1673〜1703年(延宝〜元禄期),綿作はその最盛期を迎えた。1703年(元禄16)摂津住吉郡遠里小野村では,田方綿作が約33%,田畑あわせて綿作率67%であり,河内の北野田村・更池村(さらいけむら)・古市村では,いずれも40〜50%が綿作である。和泉の中庄村新川家では,1673〜80年(延宝年間)手作地の半ばを綿作にあて,踞尾村北村家でも田が稲と綿との輪作であった。1694年(元禄7)和泉の大鳥村では,田方の47%,畑方の57%,全体で51.4%が綿作であった。18世紀に入り,摂津平野郷では,60%以上の綿作率であり,幕末期にかけても,そのままで変わらなかった。半田地帯の中河内地区の下小坂・小若江・岸田堂の諸村では,綿作率が50%以上であったが,1744年(延享1)幕府が実施した田方木綿勝手作仕法や有毛検見取法(ありげけみとりほう)などで打撃をうけ,小若江・荒川の諸村のように綿作が減少した村もあったが,概して著しく減少せず,水準は維持されている。しかし,輪作地帯の諸村は田方綿作がしだいに減少しはじめた。南河内駒ケ谷村では1730年(享保15)20%,あとの1790年(寛政2)37%と上昇したが1832年(天保3)25%と低下し,隣の碓井(うすい)村でも1725年(享保10)の50%から,1832年(嘉永6)の12%と激減し,同じ南河内の半田村では1765年(明和2)年39%,1817年(文化14)43%,1846年(弘化3)26%としだいに減少する。和泉の藤井村では,1708年(宝永5)55%であったのが,1864年(元治1)34%と低下している。以上のように綿作の衰退は,綿作の有利性が失われてきたからである。はじめは綿作は利益が多かったが,18世紀末から19世紀に入り,綿価の値上りより米価の値上りが大きくなった。さらに前述したように,綿作は稲作の2〜3倍の肥料代と2倍以上の労働力が必要であり,肥料代が需要の増大から高騰し,綿作に不利な要因が加わった。かくて,稲作と綿作との収益差が大きく,綿作を後退させる要因となったのである。そのなかで,中河内地区が明治期まで綿作を維持しえたのは,その有利性にもとづくのではなく,半田とか掻揚田といった耕地形態で綿作を導入したため,その後の経済変動たる綿作の不利に応じ,作付転換できなかった事情によるとされる。畿内綿作の衰退に追い討ちをかけたのは,18世紀に入り,畿内以外に瀬戸内や東海・関東・山陰(伯耆)の諸地域が綿作地として加わり,18世紀末には綿産額を増大して,畿内綿作に打撃を与えたことによる。18世紀の,1736〜88年(元文〜天明年間)の50年間は,大坂市場へ瀬戸内地域の播磨・備前・周防などから多くの綿製品が流入し,畿内を圧倒した。19世紀に入り,畿内や瀬戸内に対して,山陰(伯耆)の綿作地が飛躍的に増大した。畑作綿作であり1830〜43年(天保年間)に品種改良を実施し,肥料として干鰯よりきわめて安い藻草を用いた。このようにして先進地域の綿作を減少せしめるほど収益をあげ,生産を増大した。綿作は以上のように地域的な隆替はあったが,その集約的農法は木綿織などの展開と相まって,農民の経済的向上を招き“民富”の形成に大きく寄与した。
〔参考文献〕武部善人『河内木綿史』